『行かなければ、壊れなかった』 ~74歳、四十年の友情が終わった日~

かおるこ

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第2話「格差」

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第2話「格差」

森の家は、駅から十分ほど歩いた住宅街の奥にあった。

白い外壁。
低い塀。
手入れされた植木。

「ここか……」

門扉の前で立ち止まる。

チャイムを押す指が、少しだけ重い。

ピンポン、と軽やかな音。

すぐにドアが開いた。

「おう!」

森が立っている。

昔より腹は出ているが、声は変わらない。

「久しぶりだな、佐藤」

「……ああ」

握手をする。

手のひらが温かい。
力が強い。

「上がれ上がれ」

玄関に足を踏み入れた瞬間、匂いが違った。

新しい木材の匂い。
ほのかに甘い、洗剤の香り。

床が光っている。

「リフォームしたんだ」

森が得意げに言う。

「へえ……」

廊下を歩く。
足音が軽い。

リビングに入ると、空間が広がる。

高い天井。
大きな窓。
白い壁。

陽の光が、床に四角く落ちている。

「広いな」

思わず口に出る。

「まあな。思い切った」

森が笑う。

ソファはふかふかだ。
座ると、身体が沈む。

自分の団地の、きしむソファを思い出す。

壁に写真が並んでいる。

孫だろう。
小さな手。
笑顔。

「かわいいだろ」

森が写真を指さす。

「ああ」

喉の奥が少し乾く。

奥から声がした。

「あなた、お客様?」

森の妻だ。

エプロン姿。
穏やかな顔。

「高校の友達だよ。四十年以上のな」

「まあ、それはそれは」

柔らかく頭を下げられる。

「お邪魔します」

自分の声が、少し低い。

テーブルには、湯気の立つコーヒー。

香ばしい匂いが広がる。

「飲めるか?」

「ありがたく」

カップを手に取る。

熱が掌に伝わる。

森が向かいに座る。

「どうだ、最近は」

「まあ……ぼちぼちだ」

「年金か?」

「ああ」

軽く言ったつもりだった。

森はうなずく。

「俺も再雇用終わったよ。今はのんびりだ」

“のんびり”。

この家での“のんびり”と、
団地の六畳での“のんびり”。

同じ言葉なのに、重さが違う気がする。

森が笑う。

「お前、元気そうだな」

その一言。

普通の言葉だ。

だが、胸の奥でざらりと音がした。

元気そう。

“そう”。

見た目だけ、という響き。

「まあな」

笑ってみせる。

口角がうまく上がらない。

森の妻が言う。

「佐藤さん、お一人なんですって?」

「ええ、まあ」

「自由でいいわねえ」

自由。

その言葉が、胸をかすめる。

自由は、時に空洞だ。

「気楽ですよ」

そう答える。

森が笑う。

「こいつ、昔から強がるんだよ」

「うるせえ」

軽く返す。

昔なら、自然に笑えたはずだ。

今は、どこか硬い。

話題は高校時代へ移る。

文化祭。
部活。
喧嘩。

二人で笑う。

確かに、楽しい。

だが、ふと視線がリビングを巡る。

広い空間。
整った家具。
家族の気配。

自分の部屋を思い出す。

積み上がった新聞。
くすんだカーテン。
冷蔵庫の唸り。

胸の奥が、ひりりとする。

森が立ち上がる。

「庭も見るか?」

「庭?」

外に出る。

芝生が整えられている。

小さな花壇。

「孫が走り回るんだ」

森の声が弾む。

風が、草の匂いを運ぶ。

自分の団地のベランダには、
干しっぱなしの洗濯物しかない。

「いいな」

ぽつりと出る。

森は笑う。

「まあ、ローンは大変だったけどな」

その言葉に、少しだけ救われる。

努力の結果だ。

運じゃない。

だが、それでも。

帰り際。

玄関で靴を履く。

森が肩を叩く。

「また来いよ」

「ああ」

「今度はお前のとこにも行く」

その言葉が、胸を刺す。

「……ああ」

曖昧に返す。

外に出る。

空気が少し冷たい。

門を出て、振り返る。

白い家が、陽を浴びている。

「元気そうだな、か」

呟く。

駅へ向かう道。

足音がやけに重い。

団地の階段を上る自分を想像する。

薄暗い廊下。
鍵の音。

胸がざわつく。

羨ましいのか。
悔しいのか。

分からない。

ただ、何かが引っかかっている。

「四十年な」

あの頃は、同じだった。

同じ教室。
同じ制服。
同じ未来。

今は違う。

家の広さ。
家族の数。
生活の匂い。

電車の窓に映る自分を見る。

少し疲れた顔。

「元気そう、か」

もう一度、呟く。

その言葉の裏に、自分で勝手に意味を乗せている気がする。

森は悪くない。

分かっている。

だが、胸のざらつきは消えない。

団地の前に立つ。

見慣れた灰色の壁。

ポケットの鍵が、やけに軽い。

「ただいま」

誰もいない部屋に言う。

ドアを開けると、いつもの匂い。

少し湿った空気。

冷蔵庫の唸り。

リビングの明るさが、まだ目に残っている。

靴を脱ぐ。

部屋の静けさが、やけに深い。

「……元気そう、か」

ぽつりと呟く。

その言葉が、部屋の隅で、静かに転がった。

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