『行かなければ、壊れなかった』 ~74歳、四十年の友情が終わった日~

かおるこ

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第5話「言葉」

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第5話「言葉」

夜だった。

テレビはついているが、内容は頭に入らない。
青白い光が、六畳の壁を冷たく照らしている。

スマホが震える。

ぶるる、と短く、しかし逃げ場のない音。

画面を見る。

森。

胸が、きゅっと縮む。

出ないという選択肢が一瞬浮かぶ。
だが、逃げ続けるのも違う気がした。

「……もしもし」

声が、わずかに低い。

『佐藤』

森の声は、いつもより硬い。

『避けてるのか?』

直球だった。

息が止まる。

冷蔵庫の低い唸りが、やけに大きい。

「別に」

即答する。

その速さが、自分でも不自然だと分かる。

『メッセージ、既読のままだぞ』

「忙しかった」

嘘だ。

森は沈黙する。

受話器の向こうで、小さな生活音がする。
皿の触れ合う音。
誰かの笑い声。

それが、胸をざらりと擦る。

『昔はこんなじゃなかった』

森が言う。

低い声。

責めるというより、困惑している。

『用があればすぐ来ただろ』

その言葉が、過去を引きずり出す。

あの頃は、夜中でも呼べば出た。
財布に千円しかなくても、二人で飲んだ。

「昔はな」

自分の声が、少し乾く。

『今は違うのか?』

「人は変わるだろ」

森が息を吸う音がする。

『お前、何怒ってんだ?』

怒っている?

自分でも分からない。

ただ、胸の奥が熱い。

「怒ってねえよ」

『じゃあなんでだ』

沈黙。

言葉が喉で絡まる。

言えない。

“お前の家が眩しかった”なんて。

“自分が惨めに見えた”なんて。

代わりに、別の言葉が口をつく。

「お前は変わった」

一瞬、自分の声が他人みたいに聞こえる。

言ってはいけない一言。

森が、黙る。

本当に、黙る。

テレビの音だけが、部屋に響く。

『……俺が?』

低い声。

「家だの、孫だの、自慢みたいに」

言葉が止まらない。

「広い家見せびらかしてさ」

言いながら、自分で分かっている。

違う。

森は自慢していない。

自分が勝手に比べただけだ。

だが、止まらない。

「元気そうだな、ってなんだよ」

息が荒い。

胸が熱い。

『……』

森は何も言わない。

その沈黙が、重い。

受話器の向こうの空気が、変わるのが分かる。

『俺は』

森が、ゆっくり言う。

『ただ、会いたかっただけだ』

その声は、怒りよりも、寂しさに近い。

『お前の家がどうとか、そんなこと考えてねえ』

胸の奥が、ぐらりと揺れる。

「……」

言葉が出ない。

『昔は、そんなこと気にしなかっただろ』

森の声が、かすかに震える。

『お前、いつからそんなに卑屈になった』

卑屈。

その言葉が、胸を刺す。

「卑屈じゃねえ!」

思わず叫ぶ。

静かな団地に、自分の声が反響する。

「現実だろ!」

何の現実だ。

家の広さか。
生活の差か。

『佐藤』

森が名前を呼ぶ。

昔と同じ声。

だが、距離がある。

『俺たち、そんなことで壊れる仲だったか?』

その問いに、答えられない。

壊したくない。

でも、もう何かがずれている。

「……分からねえよ」

声が小さくなる。

冷蔵庫の唸りが、また耳につく。

部屋の匂いが、急に強く感じる。

『俺は変わってねえ』

森が言う。

『お前も、変わらなくてよかったのに』

その言葉が、重く落ちる。

変わらなくてよかった?

変わらずに、団地にいて、独りで。

それでよかったのか。

「……切るぞ」

逃げるように言う。

『ああ』

短い返事。

『少し、頭冷やせ』

通話が切れる。

耳に、無音が残る。

テレビを消す。

部屋が、静まり返る。

「お前は変わった」

さっきの自分の言葉が、頭の中で反響する。

違う。

変わったのは、自分だ。

森は、ただ前に進んだ。

自分は、止まった。

その事実を、突きつけられただけだ。

ソファに崩れる。

ばねがきしむ。

目を閉じる。

胸の奥に、細いヒビが入った感覚。

まだ割れてはいない。

だが、確実に。

四十年の重みが、静かに軋んでいる。

「……なんで、あんなこと」

呟く。

答えは分かっている。

言葉は、一度出たら戻らない。

沈黙の向こうで、森も同じように座っているのだろうか。

受話器を見つめる。

もう鳴らない気がした。

友情は、突然壊れるわけではない。

小さな言葉が、少しずつ、深く、
見えないところに亀裂を入れていく。

今夜、そのヒビは、確かに広がった。

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