『行かなければ、壊れなかった』 ~74歳、四十年の友情が終わった日~

かおるこ

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第7話「後悔」

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第7話「後悔」

夜。

団地の窓の外は、もう真っ暗だ。
遠くで電車の走る音が、低く響く。

部屋の明かりは一つだけ。
黄色い光が、古い壁紙を照らしている。

ソファに座り、何もつけていないテレビの黒い画面を見つめる。

そこに映るのは、自分の顔。

少し疲れて、少し硬い。

「あの時、行かなきゃよかった」

ぽつりと呟く。

森の家。

あの広いリビング。
磨かれた床。
孫の笑い声。

見なければ、比べなかった。

知らなければ、ざらつかなかった。

「行かなきゃよかった」

もう一度言う。

だが、胸の奥がすぐに否定する。

いや、違う。

本当は違う。

両手で顔を覆う。

指の隙間から、古い家具の匂いが漂う。

「……見栄を張らなきゃよかった」

低く、かすれた声。

そうだ。

森は来ると言っただけだ。

“今度はお前の家に行くよ”

あの言葉に、自分が勝手に怯えた。

この部屋を。

この生活を。

「何が恥ずかしいんだよ」

独り言が、壁に当たって跳ね返る。

団地の六畳。

年金暮らし。

古いソファ。

それが、自分の今だ。

誰に見せられない?

森は、昔から自分の部屋を知っている。

狭いアパートで、夜通し飲んだこともある。

散らかった机で、くだらない話をした。

あの頃は、何も気にしなかった。

「俺が変わったのか」

呟く。

冷蔵庫の低い唸りが、答えのように続く。

森の声が蘇る。

“俺は変わってねえ”

あの夜の、少し寂しげな声。

胸の奥が、ぎゅっと痛む。

「卑屈……か」

山本の言葉。

プライドが高い。

卑屈になった。

どちらも、否定できない。

ソファに背を預ける。

ばねがきしむ。

天井を見上げる。

白いはずの天井は、少し黄ばんでいる。

「見栄を張らなきゃよかった」

三度目の言葉は、ほとんど吐息だ。

森の家で、自分は笑っていた。

だが、心の中で比べていた。

広さ。

明るさ。

家族の数。

あの“元気そうだな”という言葉に、
勝手に棘を足したのも自分だ。

森は、ただ会いたかっただけなのに。

「なんであんなこと言った」

“お前は変わった”

言ってはいけない一言。

あの瞬間、森の沈黙が長くなった。

あれが、ヒビの音だった。

立ち上がる。

部屋を歩く。

足裏に、少しざらつきが残る。

掃除は、まだ中途半端だ。

「来ればよかったんだ」

森が来て、
このソファに座って、
古いマグカップでコーヒーを飲んで。

笑って。

「お前んとこ、相変わらずだな」

そう言ってくれたかもしれない。

勝手に想像する。

森の笑い声。

「狭いけど落ち着くな」

そう言ってくれたかもしれない。

その可能性を、自分が潰した。

「小さいな……俺」

ぽつりと漏れる。

プライドを守るために、
友情を削った。

それは、どちらが重い。

窓を開ける。

夜の空気が流れ込む。

少し湿った匂い。

遠くで犬が吠える。

胸の奥が、静かに痛む。

激しくない。

じわじわと、長く続く痛み。

「あの時、素直に“来いよ”って言えたらな」

想像する。

森が玄関に立つ。

少し照れくさそうに笑う。

「来たぞ」

自分が笑う。

「散らかってるけどな」

それだけで、よかったのに。

ソファに戻る。

スマホを手に取る。

森の名前。

画面は暗い。

「今さら、か」

呟く。

電話をかける勇気は、まだない。

後悔は、静かだ。

泣き叫ぶわけでもない。

ただ、胸の奥に座り込む。

「あの時、行かなきゃよかった」

最初の言葉が、また浮かぶ。

首を振る。

「違う」

行かなきゃよかったんじゃない。

見栄を張らなきゃよかった。

それだけだ。

それだけなのに。

四十年が、遠く感じる。

テレビの黒い画面に、自分が映る。

少し、弱い顔。

「謝るか……」

小さく呟く。

その声は、夜の静けさに溶ける。

後悔は、時間を巻き戻さない。

ただ、次の一歩を考えさせる。

部屋は静かだ。

だが、胸の中では、
あの言葉が何度も繰り返されている。

「見栄を張らなきゃよかった」

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