『行かなければ、壊れなかった』 ~74歳、四十年の友情が終わった日~

かおるこ

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第8話「もし呼んでいたら」

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第8話「もし呼んでいたら」

夜の部屋は、やけに静かだ。

時計の針の音だけが、規則正しく鳴っている。
カチ、カチ。

ソファに座り、天井を見上げる。

「あの時……」

ぽつりと呟く。

もし。

あの時、電話口で言えていたら。

“今度はお前の家に行くよ”

その言葉に、素直に返せていたら。

「来いよ」

たったそれだけの言葉を。

目を閉じる。

想像する。

チャイムが鳴る。

ピンポン。

現実には鳴らない音が、耳の奥で響く。

立ち上がる自分。

少し慌てて、散らかった新聞を脇に寄せる。

「散らかってるぞ」

ドア越しに言う。

森の声が返る。

『昔からだろ』

玄関を開ける。

森が立っている。

昔と変わらない笑い顔。

「来たぞ」

「ああ」

ぎこちなく笑う自分。

森が靴を脱ぐ。

団地の狭い廊下を進む。

「狭いな」

「文句言うな」

二人で笑う。

リビング。

古いソファ。
低い天井。
少し湿った空気。

森が辺りを見回す。

胸がぎゅっとなる。

比べられる。

そう思う。

だが、森は肩をすくめる。

「いいじゃないか」

軽く言う。

「これが生活だろ」

その声は、優しい。

見下すでも、慰めるでもない。

ただの事実として。

「お前、相変わらずだな」

笑う。

その笑い声が、部屋に広がる。

狭い空間が、少し温かくなる。

「コーヒー出す」

自分が言う。

インスタントをカップに注ぐ。

湯気が立つ。

森がマグカップを受け取る。

「懐かしい匂いだな」

「何がだ」

「お前んちの匂い」

森が鼻を鳴らす。

「落ち着く」

その言葉で、胸の奥がほどける。

団地の匂い。

古い家具の匂い。

それは、恥ではない。

ただの時間の積み重ね。

「お前さ」

森がソファに沈みながら言う。

「何をそんなに気にしてた」

「……」

言葉が詰まる。

森は笑う。

「家の広さか?」

図星だ。

だが、森は続ける。

「俺はな、お前がいればそれでいい」

静かに。

まっすぐに。

「四十年だぞ」

その声に、胸が熱くなる。

「俺たち、家で決まる仲か?」

その問いに、首を振る。

涙が滲む。

「ばかだな」

森が笑う。

「お前、昔から見栄っ張りだ」

「うるせえ」

笑いながら言う。

二人で笑う。

団地の狭い部屋に、笑い声が響く。

壁に跳ね返る。

温かい。

それだけで、十分だ。

――

目を開ける。

静寂。

部屋は、冷たい。

ソファに一人。

コーヒーの湯気はない。

チャイムも鳴らない。

現実は、静かだ。

「……もし」

喉がひくりと動く。

あの想像は、ただの幻。

森は、ここに来ていない。

自分が、呼ばなかったから。

「いいじゃないか、これが生活だろ」

その言葉は、想像の中だけで響く。

胸の奥が、じわりと痛む。

涙がこぼれる。

気づかないうちに、頬を伝う。

「ばかだな……俺」

声が震える。

森は、あんなこと言っただろうか。

本当は分からない。

もしかしたら、気まずくなったかもしれない。

それでも。

呼ぶ勇気を持てなかったのは、自分だ。

プライドを守るために、
友情を遠ざけた。

団地の壁に、夜の気配が染み込む。

遠くで救急車のサイレンが鳴る。

現実は、淡々としている。

「呼べばよかった」

小さく、もう一度言う。

涙が、ぽたりと落ちる。

畳に染みる。

幻の中の森は、まだ笑っている。

「これが生活だろ」

その声が、耳の奥で繰り返される。

今はもう、確かめようがない。

部屋は静かだ。

だが、胸の中では、
もし、という言葉が何度も波打っている。

そして、その波が引いたあとに残るのは、
ただ静かな、後悔だった。

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