『虚飾のパトロン:落ちぶれ文豪とゴーストライターの逆襲』

かおるこ

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第4話「共犯者の亀裂」

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雨はもう止んでいたのに、出版社の廊下はまだ濡れた匂いがした。傘の水滴とコンクリートの冷えた匂いが混じり、コピー機の熱と紙の甘い匂いが、その上に薄く重なる。

佐伯は自分のデスクに座り、マグカップのふちに唇を当てた。コーヒーは冷めている。苦い。舌の奥に残る苦みが、今日の気分に妙に合っていた。

机の上には、刷り出しが二束。

一つは、五十嵐豪の最新作——『透明な王国』のゲラ。

もう一つは、古い紙束。プリントアウトしたSNSの投稿だ。インクが少し薄く、紙の端が波打っている。五年前。まだ自分が新人編集者で、夜中に作家志望の投稿を漁っていた頃に保存したもの。

ふと、佐伯はゲラの一行を指でなぞった。

> 「光は、いつも正しい顔をして嘘をつく。」

喉の奥が、きゅ、と縮む。

同じ感覚が、昨日からずっと胸のどこかに貼りついている。剥がそうとすると痛い。放っておくと痒い。

佐伯はもう一つの紙束をめくった。

SNSの投稿。署名は小さく「蓮」とだけ。

> 「光はいつも正しいふりをする。だから影は真実を覚える。」

——似ている。

いや、「似ている」なんて言葉では足りない。匂いが同じだ。言葉の湿り気、比喩の温度、句読点を置く場所の癖。読んだ瞬間、舌の裏に残る後味まで似ている。

佐伯は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

「……気のせいだ」

口に出してみる。声は乾いていた。

五十嵐豪は大物作家だ。三十年。受賞歴。講演。テレビ。サイン会。ファン。編集部の誰もが頭を下げる存在。

そんな男が、ゴーストライターを——?

いや、そんな話はよくある。業界の裏話として、笑い話のように。

でも「五十嵐豪」で、それは……。

胸の奥がざわつく。

佐伯はもう一度ゲラを開き、赤ペンを握った。指先が汗で滑る。紙のざらつきが指腹に引っかかり、妙に現実的だ。

そこへ、隣の席の若手編集・水野が顔を出した。

「佐伯さん、五十嵐先生の件、今日の夕方お電話入れるって」

「……ああ」

「どうしました? なんか顔色悪いですよ」

「寝不足」

佐伯は笑ってごまかした。

水野は軽く肩をすくめる。

「先生、また機嫌悪いんですかね。最近さ、こっちの修正提案にすぐ噛みつくじゃないですか」

噛みつく。

その言葉に、佐伯の胃がきゅっとなる。

五十嵐は昔から傲慢だった。だが最近は、特に。

原稿が出るたび、五十嵐の口数は減り、怒りっぽくなっていった。まるで、何かに追い立てられるように。

「……水野、ちょっと聞きたいんだけど」

「はい」

「先生の新作、読んだ?」

「ゲラなら。いや~、やっぱ天才っすよね。『光は嘘をつく』とかさ、刺さります」

佐伯は笑えなかった。

「刺さる、か」

水野は気づかず続ける。

「ていうか、先生、最近“影”って言葉好きですよね。流行ってんのかな」

佐伯の喉が鳴った。

「流行り、ね」

水野が去ると、佐伯はデスクの引き出しからスマホを取り出した。指が少し震えている。

検索欄に打つ。

「柳沢 蓮」

出てこない。

「蓮 作家志望 影 光 SNS」

いくつかヒットする。アカウントはほとんど消えている。だが、スクショで残されている投稿があった。まとめサイトの片隅。誰かが「この頃の文章好きだった」と貼っている。

佐伯は息を止めて読んだ。

> 「影は、光が落とした嘘の形だ。」

指先が冷たくなった。

ゲラの中にも、似た文があった。

> 「影とは、光が落とした嘘の輪郭である。」

——輪郭。

嘘。

形。

落とす。

語彙の選び方が同じだ。言葉を並べる癖が同じだ。

佐伯はマグカップを掴んだ。冷たい陶器が掌に張りつく。コーヒーを一口。苦い。喉が焼けるような錯覚がした。

「……まさか」

口に出すと、現実になる気がして怖い。

佐伯は立ち上がり、窓際へ行った。ガラスの向こうに、夕方の街が広がっている。濡れたアスファルトが街灯を反射し、光が滲む。人々は傘を閉じ、早足で駅へ向かっている。

光。

影。

「……俺も、共犯か」

呟きがガラスに吸われた。

背中に、冷たい汗が流れた。

五十嵐の原稿を受け取り、褒め、世に出し、売り、賞に乗せ、持ち上げてきたのは自分だ。もしそれが他人の文章だったとしたら——。

編集者としての誇りが、ぐらぐらと揺れる。

そのとき、電話が鳴った。

内線。

「佐伯さん、五十嵐先生からです」

受付の声。

佐伯は心臓が跳ねるのを感じながら受話器を取った。

「はい、佐伯です」

『おい』

五十嵐の声。低く、苛立っている。

『例の修正、まだ反映してないだろ』

「すみません、確認中で——」

『確認中? 何を確認する。お前は編集者だろ。作者の意図を汲め』

意図。

作者。

その言葉が、佐伯の胸を刺す。

「……先生」

思わず声が硬くなる。

『なんだ』

「今回の原稿、文体が少し——」

『少し?』

五十嵐の笑い声が電話越しに響いた。ぞくりと背筋が冷える。

『佐伯、お前も俗物になったな。文体がどうした。売れるんだ。賞も取る。何が不満だ』

佐伯は唇を噛んだ。血の味がした。

「……不満じゃないです。ただ」

『ただ?』

「先生の“影”の使い方が、以前と違う気がして」

沈黙。

電話の向こうで、息を吸う音。

『……お前、何が言いたい』

声が、低く、鋭くなる。

佐伯の喉が乾く。手のひらが汗で受話器を滑らせそうになる。

「いえ、たいした話じゃ——」

『たいした話じゃないなら、黙って従え』

ガチャン。

切れた。

受話器の向こうの無音が、耳に痛い。

佐伯は受話器を戻せず、しばらく握っていた。

指が痺れる。

背後から声がした。

「……佐伯さん」

振り向くと、水野が立っていた。表情が曇っている。

「大丈夫ですか。先生、また怒鳴ってました?」

佐伯は無理に笑った。

「いつものことだ」

水野は首をかしげる。

「でも最近、先生、電話越しでも息切れしてません? なんか、焦ってるっていうか……」

焦ってる。

その言葉が、佐伯の胸に落ちる。

焦っているのは、誰だ。

五十嵐か。

それとも自分か。

佐伯はデスクに戻り、古い紙束をもう一度手に取った。指が紙の端をなぞる。ざらりとした感触。安い紙。けれど、そこにある文章は不思議と温かい。生きている匂いがする。

「……この文章を書いた人は、どこにいる」

言葉が零れた。

ふと、五十嵐が以前言ったことを思い出す。

『地下で書かせてる。静かでいいだろう?』

笑いながら。

冗談みたいに。

でも。

地下。

書かせてる。

佐伯の胃がひっくり返るように痛んだ。

「……行くか」

小さく言い、スマホを握り直す。

番号は知っている。五十嵐邸の連絡先。だが、今かけるべきは、そこじゃない。

佐伯は少しだけ躊躇し、それでも指を動かした。

メール作成画面。

宛先は空欄のまま。

件名だけ打つ。

「あなたの文章について」

指が止まる。

その瞬間、背中に熱いものが走った。

恐怖。

そして、妙な興奮。

編集者としての勘が言っている。

これは、物語のはじまりだ。

佐伯は深く息を吸った。コピー機の熱の匂い。紙の匂い。雨上がりの街の匂い。

そして、静かに吐く。

「……俺は、どっちの味方だ」

問う相手はいない。

だが答えだけは、喉の奥に引っかかって離れなかった。

——もしこれが本当なら。

自分は、今までずっと。

“偽物の文豪”に、未来を預けていたことになる。

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