『虚飾のパトロン:落ちぶれ文豪とゴーストライターの逆襲』

かおるこ

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第5話「決別の祝杯」

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地下室の空気は、いつもより冷えていた。

換気扇の低い唸りが、壁の奥で鳴り続けている。蛍光灯はわずかに明滅し、白い光が原稿用紙の端を青白く染めていた。

柳沢蓮は、最後の一文を打ち終えた。

> 光は、ついに自分の影に名を与えられる。

カーソルが止まる。

点滅しない。

終わったのだ、と体が先に理解した。

指先がじんと痺れている。肩は石のように重く、目の奥が熱い。だが、胸の奥は妙に静かだった。嵐が過ぎた後の湖面みたいに。

プリンターのスイッチを入れる。

ウィーン、と機械音が鳴り、紙が一枚ずつ吐き出される。インクの匂いが、地下室の湿気と混ざる。甘く、少し鉄っぽい。

柳沢は出てくる紙を揃えながら、ゆっくりと深呼吸した。

三百七十枚。

五十嵐豪の「最高傑作」となる原稿。

そして、自分の最後の仕事。

階段の上で足音がした。

今日も、あの音だ。

軽やかで、自信に満ちた靴音。

扉が開く。

「どうだ、出来たか」

香水の匂いが降りてくる。甘く重い。地下室の湿った匂いを無理やり塗りつぶすような匂い。

柳沢は原稿の束を持ったまま、振り向いた。

「……完成しました」

五十嵐は目を細める。

「ほう」

歩み寄り、原稿をひったくるように受け取る。

紙をめくる音が、やけに大きい。

パラ、パラ、と乾いた音。

「読ませろ」

柳沢は黙って立っている。

五十嵐は最終章を開き、声に出して読む。

「“王はついに、己の影と対話する”……」

低い声が地下室に響く。

「“影は名を求めた。光はそれを拒んだ”……」

ページをめくる手が、わずかに速くなる。

沈黙。

数秒。

やがて、ふっと笑い声が漏れた。

「……素晴らしい」

顔を上げる。

目が光っている。

「最高傑作だ」

その言葉が、地下室の天井にぶつかって反響する。

「これだ。これだよ、蓮くん。これこそが私の到達点だ」

私の。

柳沢の胸の奥が、ほんの少しだけ疼く。

五十嵐は原稿を抱え、くるりと回った。

「三十周年にふさわしい。文壇は震えるぞ。あの賞も、間違いなく狙える」

柳沢はゆっくりと口を開いた。

「先生」

「なんだ」

「これで、最後です」

五十嵐の動きが止まる。

「……何?」

地下室の蛍光灯が、じ、と鳴る。

柳沢は、まっすぐ五十嵐を見た。

「この原稿で、終わりにします」

数秒の沈黙。

五十嵐は、原稿を机に置いた。

「冗談だろ」

「本気です」

「生活はどうする」

「なんとかします」

「なんとか?」

五十嵐は鼻で笑った。

「甘いな。世間は甘くない。お前は、ここにいるから書けるんだ」

地下室を見回す。

「机も、静けさも、私が与えた」

柳沢は首を振った。

「違います」

声は震えていない。

「書いているのは、僕です」

五十嵐の目が細くなる。

「まだその話をするのか」

「事実です」

五十嵐は一歩近づく。

香水の匂いが濃くなる。

「お前はな、蓮」

名前を低く呼ぶ。

「才能がある。だが、名前がない」

胸を指で軽く叩かれる。

「私は名前だ。ブランドだ。信用だ。お前は、影だ」

影。

その言葉が、今はもう刺さらない。

柳沢は小さく息を吐いた。

「影でもいいです」

五十嵐が眉を上げる。

「でも」

柳沢は続ける。

「影には、形があります」

地下室の空気がぴんと張る。

「光があれば、必ず落ちる」

五十嵐は数秒、黙った。

そして、笑った。

乾いた笑い。

「反抗期か?」

柳沢は首を振る。

「決別です」

その言葉が落ちた瞬間、地下室の空気が変わった気がした。

五十嵐は原稿を抱え直す。

「勝手にしろ」

鼻で笑う。

「だがな、蓮。お前が消えても、私は書く」

「そうですか」

「世間は私を求めている。お前じゃない」

柳沢はうなずいた。

「知っています」

五十嵐は一瞬、拍子抜けしたような顔をする。

「……わかっているなら、なぜ」

「わかっているからです」

柳沢は地下室を見回した。

壁の染み。蛍光灯のちらつき。湿った匂い。

「ここにいると、自分の声が聞こえなくなる」

喉が少しだけ熱くなる。

「それが嫌になった」

五十嵐は原稿を脇に抱え、階段の方へ向かう。

「好きにしろ」

振り返らずに言う。

「どうせ戻ってくる」

階段を上る足音。

一段、一段。

柳沢はその背中に向かって言った。

「戻りません」

足音が止まる。

だが、振り返らない。

「……愚かだな」

それだけ言って、五十嵐は去った。

扉が閉まる。

重い音。

地下室に、静寂が落ちる。

換気扇の唸りだけが残る。

柳沢は、その場に立ち尽くした。

心臓がゆっくりと打っている。

怖い。

これからの生活。

金もない。

保証もない。

だが。

胸の奥に、確かな空間がある。

さっきまで塞がれていた場所に、風が通っている。

柳沢は机の引き出しを開け、小さなバッグを取り出した。

ノート。USBメモリ。古い万年筆。

それだけ。

パソコンの電源を落とす。

画面が暗くなる。

自分の顔が、黒い画面に映る。

やつれている。

だが、目は死んでいない。

柳沢は、地下室の扉に手をかけた。

冷たい金属の感触。

深く息を吸う。

湿った空気の匂い。

そして、階段を上る。

一段。

また一段。

上へ。

地上の扉を開けると、夜の空気が頬を打った。

冷たい。

だが、澄んでいる。

遠くで車の音。誰かの笑い声。風の匂い。

柳沢は振り返らない。

背後にある豪邸も、地下室も。

そして。

同じ頃。

五十嵐は自宅のリビングで、ワイングラスを掲げていた。

深紅の液体が、照明を受けて輝く。

「最高傑作だ」

独り言のように呟く。

グラスを鳴らす。

「祝杯だ」

口に含む。

酸味と渋みが舌に広がる。

満足げに息を吐く。

「蓮も、いずれ理解する」

ソファに体を沈め、原稿を胸に抱く。

「私は、光だ」

笑う。

鼻で。

だが、その笑い声は、広い部屋にやけに薄く響いた。

窓の外に、自分の影が映る。

照明に伸ばされた、細長い影。

それが、どこか歪んでいることに。

彼はまだ、気づいていなかった。

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