『虚飾のパトロン:落ちぶれ文豪とゴーストライターの逆襲』

かおるこ

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第9話「文豪の末路」

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段ボールの底が、ぎしりと鳴った。

五十嵐豪は、しゃがんだ姿勢のまま動けずにいた。かつての書斎は空っぽだ。壁に掛けられていた受賞記念の額は外され、釘だけが残っている。日焼けの跡が、白い長方形になって浮かび上がる。

窓の外では、不動産業者の車がアイドリングを続けていた。

「先生、時間です」

淡々とした声。

五十嵐は振り向かない。

「……もう少し待て」

「契約は解除済みです。鍵も返却いただきます」

床に残ったワインの染みを、ぼんやり見つめる。あの日、録音が流れた夜の跡だ。

指先で床をなぞる。乾いている。冷たい。

「三十年だぞ」

誰に言うでもなく、呟く。

「三十年築いた家だ」

「それは先生名義の財産ではありません」

冷たい現実が落ちる。

著作権侵害。詐欺の疑い。出版契約の解除。賠償請求。

テレビでは、彼の顔が繰り返し流れた。

“ゴースト依存の偽文豪”

そのテロップが、今も脳裏に焼き付いている。

段ボールを抱え、玄関へ向かう。

重い。

中身は本だ。自分の名が印刷された本。

ドアを開けると、外気が頬を打つ。

春なのに、やけに冷たい。



数日後。

古い木造アパートの前で、五十嵐は立ち尽くしていた。

二階建て。外階段は錆び、廊下の蛍光灯は昼間でも薄暗い。

「ここ、ですか」

不動産屋の若い男が言う。

「家賃四万八千円。保証人不要。即入居可」

「……他にないのか」

「先生、今はこの条件で借りられるだけでも——」

言葉を濁す。

五十嵐は視線を逸らす。

鉄の階段を上る。ギィ、と鳴る。

二〇三号室。

鍵を差し込む。

カチ、と軽い音。

扉を開けると、湿った空気が鼻を刺す。

カビと古い畳の匂い。

六畳一間。小さな流し台。ユニットバス。

天井が低い。

「……地下室みたいだな」

思わず口に出る。

あの場所が、ふと蘇る。

湿った匂い。蛍光灯。キーボードの音。

柳沢の背中。

「お前は一生、俺の影だ」

自分の声が、頭の奥で反響する。

五十嵐は、段ボールを床に置いた。

どさり、と音が響く。

部屋が狭いせいか、その音がやけに大きい。

不動産屋が言う。

「何かあれば連絡ください」

去っていく足音。

ドアが閉まる。

静寂。

冷蔵庫のモーター音だけが、ぶうん、と鳴る。

五十嵐は、畳に座り込んだ。

柔らかい。安い畳だ。少し湿っている。

天井を見上げる。

シミがある。

「……ここで書け、と?」

笑う。

乾いた笑い。

だが、喉が痛い。

スマホが鳴る。

知らない番号。

出ない。

また鳴る。

今度は週刊誌の名前が表示される。

「……しつこい」

電源を落とす。

部屋が、さらに静かになる。

窓を開ける。

隣の部屋から、テレビの音が漏れる。

ワイドショー。

「五十嵐豪氏、完全失脚——」

リポーターの声が、はっきり聞こえる。

五十嵐は、窓を閉めた。

ガラスが震える。

胸の奥がざらつく。

机もない。

椅子もない。

床に置いた段ボールから、本を一冊取り出す。

自分の代表作。

表紙を撫でる。

「……私の作品だ」

呟く。

だが、ページを開いた瞬間、文字が揺れる。

これは、誰の言葉だ。

あの地下室の声が、耳に蘇る。

『ここは“名を拒む”に変えたほうが——』

自分は頷いていた。

任せる、と言っていた。

五十嵐は、本を閉じる。

胸が痛い。

怒りか、後悔か、わからない。

「私は……」

言葉が続かない。

机代わりに段ボールを置き、ノートを広げる。

ペンを握る。

カリ、と紙を擦る音。

> 光は——

止まる。

次の言葉が出ない。

頭が空白だ。

いつもなら、浮かんだ。

いや。

浮かんでいたのは、あの地下室からだったのか。

汗が額に滲む。

ペンを強く握る。

「書け」

自分に命じる。

「書け」

だが、紙は白いままだ。

手が震える。

苛立ちが込み上げる。

ペンを叩きつける。

畳に落ちる。

「……くそ」

小さく吐く。

窓の外で、子どもの笑い声がする。

平凡な生活の音。

五十嵐は膝を抱える。

狭い。

部屋も、心も。

地下室の方が、まだ広かった気がする。

そこには、言葉があった。

今は、ない。

スマホの電源を入れる。

恐る恐る、ニュースを見る。

“著作権侵害で訴訟準備”

“被害者・柳沢蓮、沈黙”

柳沢。

その名が、刺さる。

「……出てこい」

誰もいない部屋で呟く。

「直接、話せ」

沈黙。

自分の呼吸だけが、耳に響く。

ふと、あの言葉を思い出す。

“影には、形があります”

五十嵐は、畳に伸びた自分の影を見る。

夕方の光が、細く部屋に差し込む。

影は、ひどく歪んでいる。

かつて光の中心にいた男は、今。

薄暗い六畳で、影と向き合っている。

段ボールの上の本が、静かに崩れた。

ぱさり、と軽い音。

砂の城の最後の崩落みたいに。

五十嵐は、動かない。

動けない。

ただ、白いノートを見つめる。

そこには、何も書かれていない。

名声も。

光も。

もう、ない。

残ったのは、沈黙だけだった。

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