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第4話 ボートレースの怒号
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第4話 ボートレースの怒号
午後の空気は、どこか湿っていた。
川沿いの道を歩くと、水の匂いが鼻の奥に入り込む。
春の水の匂い。少し泥の混じった、生ぬるい匂いだった。
志乃はゆっくり歩いていた。
古いスニーカーの底が、アスファルトをこする。
今日は、ただの散歩だった。
目的はない。ただ部屋にいると、胸の奥の空洞が少し広がる気がして、外へ出ただけだった。
遠くから、何かの音が聞こえてきた。
ざわざわした人の声。
そして、拡声器のような声。
「――第六レース、締め切り間近です!」
志乃は足を止めた。
「……ああ」
思い出した。
この先に、**ボートレース場**がある。
普段はあまり近寄らない場所だった。
男たちが大声を出し、煙草の煙が漂い、紙くずが風に飛ぶ場所。
志乃は少し眉をしかめた。
「うるさいわね」
だが足は止まらなかった。
そのまま歩いていくと、音はどんどん大きくなった。
**「いけえええ!!!」**
突然、怒鳴り声が響いた。
志乃はびくっと肩を揺らした。
金属の柵の向こうに、人の群れが見える。
男たちが身を乗り出し、川の方を見て叫んでいる。
水面では、白いボートが走っていた。
エンジン音。
**ブォォォォォン**
水しぶきが空に散る。
太陽の光を受けて、細かな粒が光っていた。
志乃は柵の外側で立ち止まった。
「まあ……」
思わず声が出た。
人が多い。
年配の男が多いが、若い人もいる。
帽子をかぶった男が叫んだ。
「三番! 三番いけ!」
隣の男が腕を振り回す。
「違う、五だ五!」
また別の声。
「差せ! 差せえ!」
志乃は顔をしかめた。
「まあ、はしたない」
思わず口から出た。
「こんな大声で……」
ポケットから紙を出している人がいる。
小さな紙の券。
志乃はすぐ分かった。
**舟券。**
「お金を賭けてるのね」
呟いた。
「こんなことに」
柵の向こうでは、歓声がまた上がった。
**「いけええええ!!」**
一人の男が拳を振り上げている。
顔が真っ赤だった。
志乃は小さく首を振った。
「ばかみたい」
そう言った。
「お金をドブに捨てて」
自分の声は、冷たかった。
ボートがゴールを切った。
その瞬間――
歓声と、ため息が一緒に上がった。
「よっしゃあああ!!」
「くそおおお!」
紙を握りつぶす音。
地面に落ちる足音。
志乃はその様子を見ていた。
胸の奥で、何かが動いた。
一人の老人が笑っていた。
「いやあ、外れた外れた!」
隣の男が言う。
「また次だな」
「そうだな!」
二人は笑っていた。
志乃は眉を寄せた。
「……負けたのに?」
思わず呟いた。
男たちはもう次のレースの話をしている。
「次は四だな」
「六も来るぞ」
「よし、買うか」
志乃は柵を握った。
金属がひんやりしている。
指先が冷たくなる。
川の上では、次のボートが並んでいる。
白い艇体が、ゆっくり水に揺れている。
拡声器の声。
「スタートまであと三十秒」
周りの空気が一気に緊張した。
男たちが身を乗り出す。
「頼むぞ」
「いけよ」
小さく呟く声が、あちこちから聞こえる。
志乃はその顔を見た。
どの顔も、真剣だった。
まるで子どもみたいに。
志乃は胸の奥がざわついた。
「……どうして」
小さく言った。
「そんな顔、できるの」
ボートが一斉に動いた。
**ブォォォォン!!**
水しぶきが上がる。
観客が叫ぶ。
**「いけえええ!!!」**
その声は、空気を震わせた。
志乃は息を止めた。
胸の奥に、何か熱いものが触れた。
この人たちは――
**生きている。**
そう思った。
お金を失うかもしれないのに。
それでも叫び、笑い、悔しがり、また賭ける。
その時間は、短い。
ほんの数分。
でも、その数分に、全部の気持ちをぶつけている。
志乃は自分の手を見た。
細い指。
血管が浮いている。
この手で、何をしてきたのだろう。
節約。
貯金。
家計簿。
数字を増やすこと。
それだけ。
志乃は小さく笑った。
「ばかね」
声が震えた。
「ばかなのは……」
言葉が続かなかった。
ボートがゴールした。
また歓声。
**「やったああ!」**
「ちくしょう!」
誰かが笑っている。
誰かが頭を抱えている。
その全部が、妙にまぶしかった。
志乃の目が、急に熱くなった。
「……あら」
頬に何かが触れた。
涙だった。
志乃は驚いた。
「なんで……」
拭こうとして、手を止めた。
柵の向こうで、男たちがまた笑っている。
その笑い声は、
どこか自由だった。
志乃は静かに言った。
「……贅沢ね」
声は小さかった。
「こんなふうに、熱くなれるなんて」
風が川を渡った。
水の匂いが流れてくる。
志乃はもう一度、ボートの走る水面を見た。
白いしぶきが、光の中で弾けていた。
午後の空気は、どこか湿っていた。
川沿いの道を歩くと、水の匂いが鼻の奥に入り込む。
春の水の匂い。少し泥の混じった、生ぬるい匂いだった。
志乃はゆっくり歩いていた。
古いスニーカーの底が、アスファルトをこする。
今日は、ただの散歩だった。
目的はない。ただ部屋にいると、胸の奥の空洞が少し広がる気がして、外へ出ただけだった。
遠くから、何かの音が聞こえてきた。
ざわざわした人の声。
そして、拡声器のような声。
「――第六レース、締め切り間近です!」
志乃は足を止めた。
「……ああ」
思い出した。
この先に、**ボートレース場**がある。
普段はあまり近寄らない場所だった。
男たちが大声を出し、煙草の煙が漂い、紙くずが風に飛ぶ場所。
志乃は少し眉をしかめた。
「うるさいわね」
だが足は止まらなかった。
そのまま歩いていくと、音はどんどん大きくなった。
**「いけえええ!!!」**
突然、怒鳴り声が響いた。
志乃はびくっと肩を揺らした。
金属の柵の向こうに、人の群れが見える。
男たちが身を乗り出し、川の方を見て叫んでいる。
水面では、白いボートが走っていた。
エンジン音。
**ブォォォォォン**
水しぶきが空に散る。
太陽の光を受けて、細かな粒が光っていた。
志乃は柵の外側で立ち止まった。
「まあ……」
思わず声が出た。
人が多い。
年配の男が多いが、若い人もいる。
帽子をかぶった男が叫んだ。
「三番! 三番いけ!」
隣の男が腕を振り回す。
「違う、五だ五!」
また別の声。
「差せ! 差せえ!」
志乃は顔をしかめた。
「まあ、はしたない」
思わず口から出た。
「こんな大声で……」
ポケットから紙を出している人がいる。
小さな紙の券。
志乃はすぐ分かった。
**舟券。**
「お金を賭けてるのね」
呟いた。
「こんなことに」
柵の向こうでは、歓声がまた上がった。
**「いけええええ!!」**
一人の男が拳を振り上げている。
顔が真っ赤だった。
志乃は小さく首を振った。
「ばかみたい」
そう言った。
「お金をドブに捨てて」
自分の声は、冷たかった。
ボートがゴールを切った。
その瞬間――
歓声と、ため息が一緒に上がった。
「よっしゃあああ!!」
「くそおおお!」
紙を握りつぶす音。
地面に落ちる足音。
志乃はその様子を見ていた。
胸の奥で、何かが動いた。
一人の老人が笑っていた。
「いやあ、外れた外れた!」
隣の男が言う。
「また次だな」
「そうだな!」
二人は笑っていた。
志乃は眉を寄せた。
「……負けたのに?」
思わず呟いた。
男たちはもう次のレースの話をしている。
「次は四だな」
「六も来るぞ」
「よし、買うか」
志乃は柵を握った。
金属がひんやりしている。
指先が冷たくなる。
川の上では、次のボートが並んでいる。
白い艇体が、ゆっくり水に揺れている。
拡声器の声。
「スタートまであと三十秒」
周りの空気が一気に緊張した。
男たちが身を乗り出す。
「頼むぞ」
「いけよ」
小さく呟く声が、あちこちから聞こえる。
志乃はその顔を見た。
どの顔も、真剣だった。
まるで子どもみたいに。
志乃は胸の奥がざわついた。
「……どうして」
小さく言った。
「そんな顔、できるの」
ボートが一斉に動いた。
**ブォォォォン!!**
水しぶきが上がる。
観客が叫ぶ。
**「いけえええ!!!」**
その声は、空気を震わせた。
志乃は息を止めた。
胸の奥に、何か熱いものが触れた。
この人たちは――
**生きている。**
そう思った。
お金を失うかもしれないのに。
それでも叫び、笑い、悔しがり、また賭ける。
その時間は、短い。
ほんの数分。
でも、その数分に、全部の気持ちをぶつけている。
志乃は自分の手を見た。
細い指。
血管が浮いている。
この手で、何をしてきたのだろう。
節約。
貯金。
家計簿。
数字を増やすこと。
それだけ。
志乃は小さく笑った。
「ばかね」
声が震えた。
「ばかなのは……」
言葉が続かなかった。
ボートがゴールした。
また歓声。
**「やったああ!」**
「ちくしょう!」
誰かが笑っている。
誰かが頭を抱えている。
その全部が、妙にまぶしかった。
志乃の目が、急に熱くなった。
「……あら」
頬に何かが触れた。
涙だった。
志乃は驚いた。
「なんで……」
拭こうとして、手を止めた。
柵の向こうで、男たちがまた笑っている。
その笑い声は、
どこか自由だった。
志乃は静かに言った。
「……贅沢ね」
声は小さかった。
「こんなふうに、熱くなれるなんて」
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