『黄金の砂漠 ―貯金残高一億円の孤独―』

かおるこ

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第9話 連翹の黄色い叫び

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第9話 連翹の黄色い叫び

その日、志乃は朝から落ち着かなかった。

台所で湯を沸かしながら、何度も時計を見る。

「……まだ九時ね」

呟く。

湯気が立ち上る。
味噌汁の香りが、部屋の中に広がる。

志乃は箸で豆腐をつまみながら、また考えた。

「本当に……行くの?」

誰にともなく言う。

テーブルの上には通帳が置いてあった。
残高はまだ十分ある。

志乃は通帳を閉じた。

「大丈夫よ」

自分に言った。

「減るだけじゃないもの」

それでも胸が少し落ち着かない。

志乃はコートを着た。

鏡の前に立つ。

髪を整える。

「……まあ」

小さく言った。

「買うだけよ」

駅前のデパートは、平日の午前でも人が多かった。

自動ドアが開くと、香水と新しい布の匂いが混ざった空気が流れてくる。

志乃は少し肩をすくめた。

「派手ね」

エスカレーターで上へ上がる。

呉服売り場は、静かな照明だった。

絹の反射が、柔らかく光っている。

志乃はゆっくり歩いた。

着物が並んでいる。

藍色。
薄桃色。
金の模様。

志乃は思わず言った。

「……きれい」

そのときだった。

「いらっしゃいませ」

柔らかい声がした。

振り向くと、若い店員が立っていた。

「何かお探しですか?」

志乃は少し慌てた。

「いえ、その……」

指先で棚を指す。

「見ているだけ」

店員は微笑んだ。

「どうぞごゆっくり」

志乃は着物に触れた。

絹の感触。

さらりと指を滑る。

「……いいわね」

ひとつの着物が目に止まった。

**紅梅色。**

春の梅のような、少し深い桃色。

志乃は思わず声を出した。

「まあ」

店員が近づく。

「こちら、お似合いになると思います」

志乃は少し笑った。

「私に?」

「はい」

店員は着物を広げた。

布が空気の中でゆっくり広がる。

紅梅色が光を受けて、柔らかく輝いた。

志乃の胸が少しだけ高鳴る。

「……でも」

志乃は小さく言った。

「高いでしょう」

店員は値札を見た。

「はい、こちらは少し良いものです」

志乃は値段を見た。

一瞬、息が止まる。

頭の中で数字が動いた。

だが――

志乃はその数字を押し戻した。

「……これ」

静かに言った。

「ください」

店員の目が少し丸くなる。

「本当によろしいですか?」

志乃はうなずいた。

「ええ」

そして小さく笑った。

「使うために買うのよね」

店員も笑った。

「もちろんです」

支払いを終えると、袋は思ったより軽かった。

志乃はそれを抱えて外へ出た。

空は明るかった。

川沿いの道には、**桜**が咲いていた。

淡い花びらが、風に揺れている。

志乃は袋を開けた。

中から紅梅色の着物を少しだけ取り出す。

絹の光。

志乃はそれを胸に当てた。

そのとき、店員の言葉が思い出された。

**「お似合いですよ」**

志乃は立ち止まった。

「……私に」

胸の奥が、じんわり温かくなる。

誰かに似合うと言われたのは、いつ以来だろう。

志乃は桜を見上げた。

花びらが一枚、肩に落ちた。

志乃はそれを指で取った。

「……変ね」

小さく笑う。

「こんなことで」

目が少し熱い。

道の向こうに、**連翹**が咲いていた。

黄色い花が、枝いっぱいに爆発している。

まるで春が叫んでいるみたいだった。

志乃はその前に立った。

風が吹く。

黄色い花が揺れる。

志乃は静かに言った。

「……私」

紅梅色の布を握る。

「まだ」

声が少し震えた。

「女だったのね」

桜の花びらが、またひとつ舞い落ちた。

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