「他人とは暮らせませんのでwと言われた母、実は家計の柱でした」

かおるこ

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最終章

第30話 「他人とは暮らせませんので」

第30話 「他人とは暮らせませんので」

湯気が、ゆっくりと立ち上っている。

白い湯呑みから立つそれは、細く、やわらかく、静かな部屋の空気に溶けていく。

美紀はそれを見ていた。

揺れる湯気。

その向こうに、うつむいた二人。

「……お願い、します」

長男の声が、かすかに震える。

畳に落ちる視線。

握りしめた拳が、じっとりと湿っているのが見える。

隣で、妻も何度も頭を下げている。

「私たち、本当に……どうしたらいいか分からなくて……」

声が途切れる。

息を飲む音。

すすり泣く気配。

部屋は静かだ。

外の風が、カーテンをわずかに揺らす。

さら、と布が擦れる音。

その穏やかさが、逆に場違いに感じられる。

美紀は湯呑みを手に取る。

温かい。

指先に、じんわりと熱が伝わる。

一口、すする。

ほうじ茶の香ばしい香りが、口の中に広がる。

ゆっくりと飲み込む。

その一連の動作の間、二人は何も言えない。

ただ、待っている。

裁かれるのを。

「……ねえ」

美紀が、静かに口を開く。

その声は柔らかいのに、逃げ場がない。

「どうして、私のところに来たの?」

長男の肩がびくりと揺れる。

「……それは……」

言葉が続かない。

「銀行にも、親戚にも、友達にも、頼れなかったから?」

淡々とした問い。

責める響きはない。

けれど、一つひとつが重い。

「……」

沈黙が答えになる。

「……私なら、なんとかしてくれると思った?」

その言葉に、長男の喉が詰まる。

「……母さんは……」

「うん?」

優しく促す声。

しかし、その優しさが逆に苦しい。

「……家族だから……」

やっと絞り出した言葉。

その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。

美紀は、ゆっくりと湯呑みを置く。

コト、と小さな音。

それがやけに響く。

「……家族」

小さく繰り返す。

「そうね」

うなずく。

一度だけ。

「じゃあ、聞くけど」

視線がまっすぐに向く。

逃げられない。

「私が家族だったのは、いつまで?」

言葉が、鋭く刺さる。

「……え……」

理解が追いつかない。

「私が朝四時半に起きて、お弁当を作っていた時?」

「……」

「洗濯して、掃除して、あなたたちの生活を回していた時?」

「……」

「それとも」

少し、間を置く。

静寂。

時計の音だけが響く。

「“他人”って言われるまで?」

その一言で、空気が凍りついた。

長男の呼吸が止まる。

妻の指先が震える。

あの日の光景が、鮮明によみがえる。

笑い声。

軽い口調。

「他人とは暮らせませんのでw」

あの言葉。

あの瞬間。

「……あれは……」

妻が口を開く。

「違うんです……あれは、つい……」

「つい、何?」

静かな問い。

「……」

答えられない。

言い訳が、全部空っぽに感じる。

「ねえ」

美紀の声が、少しだけ低くなる。

「言葉ってね、一度口に出したら消えないの」

静かに、はっきりと。

「どんな気持ちで言ったかなんて、関係ないの」

視線が逸らせない。

「受け取った側にとっては、それが全部だから」

胸が締め付けられる。

痛い。

息が苦しい。

「……私はね」

美紀は続ける。

穏やかに。

「あなたたちの言葉で、ちゃんと分かったの」

「……何が……」

かすれた声。

「自分の立場が」

一言。

それだけ。

「だから、出ていったの」

その事実が、改めて突きつけられる。

あの日、玄関で立ち尽くしていた姿。

背中。

ドアの閉まる音。

「……でも……!」

長男が顔を上げる。

「今は違う!俺たち、ちゃんと分かって――」

「何を?」

被せられる。

即座に。

「……」

言葉が止まる。

「何を分かったの?」

問いが重なる。

逃げ場がない。

「……母さんが……必要だって……」

やっとの思いで出た言葉。

その瞬間、美紀はほんの少しだけ目を細めた。

「……そう」

短い返事。

「必要だから、戻ってきてほしい?」

静かに。

「……助けてほしい……」

声が崩れる。

「もう一度、家族として……」

その言葉を聞いた瞬間、

美紀は、ゆっくりと首を横に振った。

「ごめんなさい」

その一言は、あまりにも静かだった。

けれど、決定的だった。

「……え……」

空気が止まる。

「無理よ」

はっきりと。

「どうして……」

「簡単なことよ」

美紀は言う。

穏やかに。

そして――

「あなた達がそう言ったでしょう」

その言葉が、静かに落ちる。

逃げ場もなく、確実に。

「“他人とは暮らせませんので”って」

胸の奥に、深く刺さる。

動けない。

何も言えない。

「……私は、あの時“他人”になったの」

美紀は続ける。

「だったら、他人として生きるだけ」

静かに、自然に。

「他人を養う理由は、ないでしょう?」

その言葉で、すべてが終わった。

完全に。

沈黙。

長い。

重い。

どこにも逃げられない現実。

やがて、長男の肩が落ちる。

力が抜ける。

「……そうか……」

かすれた声。

理解した。

遅すぎるほどに。

妻は、声も出せずに泣いている。

嗚咽をこらえる音が、かすかに響く。

美紀は立ち上がる。

畳を踏む足音が、やけに静かだ。

窓の方へ歩く。

カーテンを開ける。

外の光が、部屋に差し込む。

明るい。

まぶしいほどに。

「……これから、忙しくなるの」

背中越しに言う。

「引っ越しの準備もあるし」

その言葉に、長男が顔を上げる。

「……引っ越し?」

「ええ」

振り返る。

穏やかな表情。

「新しい家、決めたのよ」

その顔には、迷いがない。

「今度は、自分のために住む家」

風が入る。

新しい空気。

軽い。

何もかもが違う。

「……じゃあね」

その一言で、

本当に終わりだった。

ドアが開く。

外の光。

長男は立ち上がれない。

何も言えない。

ただ、その背中を見ているしかできない。

かつて当たり前だった存在が、

完全に手の届かない場所へ行ってしまうのを、

ただ見送るしかなかった。

遠くで、風が吹く。

その音だけが、やけに澄んで聞こえた。

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