『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第2話「消えない傷跡」

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――ガシャン!

 静寂を切り裂いたのは、陶器が粉々に砕け散る硬質な音だった。
「ひだまりの家」の共有ラウンジに、張り詰めた空気が充満する。結衣が駆けつけたとき、そこには床にぶちまけられた麦茶と、破片の海、そして肩を上下させて荒い息を吐くカイトが立っていた。

「……何よ、ジロジロ見んなよ!」

 カイトの叫びは、震えていた。彼の足元には、入居者の女性が大切にしていた青い花瓶が、無残な姿で横たわっている。

「カイト君、怪我はない!? 動かないで、破片が危ないから」
 結衣は膝をつき、カイトの安否を確認しようと手を伸ばした。だが、カイトはその手を烈火のごとき勢いで振り払った。
「触んな! どうせ僕が悪いんだろ! わざとじゃない、あいつが、あのおばさんが僕を……!」

「言い訳は見苦しいぞ」

 背後から、氷のように冷徹な声が響いた。車椅子をきしませて現れたのは、佐藤源三だ。彼の細い指先が、車椅子の手すりを白くなるほど握りしめている。その瞳には、嫌悪と、それ以上の「何か」が宿っていた。

「教育がなっていない。佐々木君、君は一体何を指導しているんだ。ここは公共の場だ。自分の感情一つ制御できない獣を放し飼いにする場所ではない」

 源三の言葉は、カイトの心の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。カイトの顔が、屈辱で真っ赤に染まる。

「じいさんに関係ねえだろ! 黙ってろよ!」
「黙れだと? 目上の者に対する言葉遣いも知らんのか。親の顔が見てみたいものだ――ああ、そうだったな。親に見捨てられたから、ここにいるんだったな」

 その瞬間、結衣の頭の中で何かが弾けた。
「佐藤さん! それは言い過ぎです!」

 結衣はカイトを背中に隠し、源三を真っ向から見据えた。源三の鼻腔をくすぐるのは、カイトの流した涙の鉄っぽい匂いと、ぶちまけられた麦茶の香ばしくも苦い香り。
「カイト君は、ただ……」
「ただ何だ? 同情で飯が食えると思っているのか。甘やかすのが教育ではない。このガキは、社会のゴミとして生きていく予行演習をしているに過ぎん」

 源三の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 源三の胸の奥には、消えない「焦げ跡」がある。一ヶ月前、一人息子の誠が彼に告げた言葉が、耳の奥でリフレインしていた。
『親父、もう限界なんだよ。母さんも死んで、俺たちも仕事がある。ここならプロが面倒見てくれる。……頼むから、これ以上俺たちの生活を壊さないでくれ』

 丁寧な言葉を選んでいたが、源三にはわかっていた。あれは「廃棄宣告」だった。かつて校長として地域に君臨し、厳格な父として家族を支配してきた自分が、今や邪魔な荷物としてここに「捨てられた」のだ。

 カイトを罵倒すればするほど、源三の心にはどす黒い自己嫌悪がせり上がってくる。鏡を見るような同族嫌悪。俺もこのガキも、結局は誰にも望まれなかった「余り物」ではないか。

「……僕だって、好きでここにいるんじゃない!」
 カイトが叫んだ。その声は、ラウンジの高い天井に反響し、結衣の鼓膜を震わせた。
「捨てられたんだよ! 僕が悪い子だから、お母さんも、お父さんも……みんな僕を捨てたんだ! あのおばさんも『かわいそうに』って言ったんだ! かわいそうなんて、言うなよ!」

 カイトは泣きながら、源三の車椅子に突っ込んでいった。
「わあああああ!」

 鈍い衝撃。源三の車椅子が数センチ後退する。結衣は慌ててカイトを抱きとめた。
「カイト君、やめて! 落ち着いて!」
「放せ! このじいさんも、僕をバカにしてるんだ! 捨てられた者同士だって、笑ってるんだ!」

 源三は、目の前で暴れる少年の瞳を見た。
 そこには、絶望的なまでの「孤独」があった。暗い井戸の底から、必死に助けを求めるような、剥き出しの光。

 源三の喉が、わずかに震えた。言い返すべき言葉は山ほどあった。礼儀、節度、社会性。だが、どの言葉も、カイトの涙の前では砂のように崩れ去った。なぜなら、源三自身もまた、毎晩ベッドの中で「俺は捨てられたのだ」という被害妄想に、内臓を抉られるような思いをしていたからだ。

「……ふん」
 源三は、震える手で車椅子のレバーを引いた。
「……騒がしい。耳が腐る。佐々木君、早く片付けたまえ」

 源三は背を向けて去っていった。だが、その背中は、第1話のときよりもずっと小さく、脆く見えた。

 結衣は、カイトの震えが収まるまで、黙って彼を抱きしめ続けた。
 床に散らばった青い花瓶の破片が、窓から差し込む西日を反射して、残酷なほど美しく輝いている。

「カイト君。……痛かったね」
 結衣が呟くと、カイトは彼女の肩に顔を埋め、声を出さずに泣きじゃくった。

 その日の夜、源三は自室で一人、窓の外を見つめていた。
 机の上には、息子家族から送られてきた「入所祝い」の高級な置時計が、カチ、カチと無機質な音を刻んでいる。
 源三はその時計を、裏返しに置いた。

 彼もまた、傷ついていた。
 厳格という鎧を着なければ、自分が崩れてしまいそうなほど。
 カイトに浴びせた言葉は、すべて自分自身に突き刺さるナイフだった。

 一方、子供棟のベッドで、カイトは暗闇の中で天井を見つめていた。
 腕には、源三の車椅子にぶつかったときの鈍い痛みが残っている。
 けれど、あのとき一瞬だけ見えた源三の瞳――。
 怒りとは違う、何かに怯えるような、自分と同じ「寂しい色」を、カイトは忘れることができなかった。

 二人の間には、まだ深い溝がある。
 けれど、お互いの「傷跡」が、かすかに共鳴し始めた夜だった。

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