『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第3話「小さなきっかけ」

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翌朝の「ひだまりの家」は、むせ返るような土の匂いに包まれていた。

 昨夜の激しい雨が、施設の庭を無残にかき乱していた。結衣が慌てて外へ出ると、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。共有スペースの目玉だった花壇が、無惨に踏み荒らされている。昨日の怒りが収まらなかったのか、カイトが激昂して暴れた跡だった。

「カイト君……」

 結衣の呟きは、湿った空気に吸い込まれた。パンジーやデージーが、泥にまみれて首を折っている。そこへ、車椅子のきしむ音がゆっくりと近づいてきた。

「無様なものだな」

 佐藤源三だった。彼は膝の上に小さな園芸用のスコップと、新しい苗がいくつか入ったビニール袋を乗せていた。

「佐藤さん、すみません。カイト君が……。私が後で片付けますから」
「君にできるのか? 土の深さも、根の広げ方も知らん若造に。……どきたまえ。邪魔だ」

 源三は、戸惑う結衣を追い払うように車椅子を花壇の縁に寄せた。彼は不自由な体で、地面に手を伸ばした。元校長の清潔だった指先が、容赦なく泥に汚れていく。

 その様子を、食堂のテラスの陰から、カイトがじっと見つめていた。カイトの心臓は、ドクドクと不快な音を立てている。また怒鳴られる。また「お前がやったんだろ」と責められる。そう身構えて、肩をすくめていた。

 ところが、源三は叫ばなかった。
 源三は、泥にまみれたパンジーの茎を一本、折れないようにそっと持ち上げた。その手つきは、驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うかのようだった。

「……っ」
 カイトは思わず、物陰から一歩踏み出した。

 源三はカイトの視線に気づいているはずだが、一度も顔を上げない。ただ、黙々とスコップで土を掘り、空気を入れ、新しい苗を植えていく。時折、源三が「ううっ」と低く呻く。腰を曲げる動作が、今の彼には相当な負担なのだ。

 カイトは我慢できなくなり、花壇のそばまで歩み寄った。
「……なんで、直すんだよ」

 震える声。源三は動きを止めず、低い声で応えた。
「花に罪はない。踏んだのが貴様だろうが、雨だろうが、この花にとっては同じことだ。ただ、痛いだけだ」

 カイトはその言葉に、心臓を直接掴まれたような衝撃を受けた。
「痛い……?」
「そうだ。植物は喋らんが、折れれば枯れる。死ぬ。……貴様と同じだ」

 源三はそこで初めて、泥のついた顔を上げた。眼鏡の奥の瞳は、昨日までの冷酷な鋭さではなく、どこか遠くの、寂しい場所を見つめているようだった。

「佐藤さん、お水持ってきました!」
 結衣がジョウロを持って駆け寄る。源三はそれを奪い取るように受け取ると、カイトの方へ差し出した。

「持て。重いぞ」
「えっ……」
「水がなければ、根はつかん。ただ壊すだけのガキで終わるか、生かす手伝いをするか、自分で決めろ」

 カイトは戸惑いながらも、ずっしりと重いジョウロを受け取った。冷たい水の重みが腕に伝わる。
「……どうすればいいの」
「ゆっくりだ。根元に、静かに注げ。泥を跳ね上げるな」

 カイトは源三に言われるまま、腰をかがめて水を注いだ。じわじわと水が土に吸い込まれていく音。湿った土が放つ、独特の濃い香りが鼻をくすぐる。

 源三は横で、カイトの不器用な手つきを黙って見ていた。
「……少し、右だ」
「……うん」
「注ぎすぎだ。根が腐る」
「わかってるよ!」

 反抗的な口調。けれど、カイトの手は止まらなかった。
 源三が土を整え、カイトが水をやる。
 その間、二人の間に漂っていたのは、昨日までの「拒絶」ではなく、奇妙に静かな、それでいて密度の濃い「共有」の時間だった。

 ふと、源三の泥だらけの手が、カイトの手の甲に触れた。
 カイトはビクッと体を強張らせたが、源三はその手を離さなかった。カイトの若く、生命力に溢れた手の熱さと、源三の枯れ木のようにカサついた、冷たい手の感触が混ざり合う。

「……いいか。一度壊れたものは、元通りにはならん」
 源三が、ぽつりと漏らした。
「だが、新しい根を張ることはできる。……この花も、貴様もだ」

 カイトは、ジョウロを持つ手に力を込めた。視界が、じわじわと熱いもので滲んでいく。
「じいさんも……そうなの?」
「……さあな。私はもう、根を張る場所を間違えた老人だ」

 源三は自嘲気味に鼻を鳴らした。だが、その顔には、ここに来て初めて見せる穏やかな影が差していた。

「あ、見て! 虹!」
 結衣が空を指差した。
 昨夜の雨の名残が、雲の切れ間から差し込む光に透けて、施設の屋根の上に淡い七色の橋を架けていた。

 カイトは顔を上げ、眩しそうに目を細めた。
「……きれい」
「フン、ただの光の屈折だ」
 源三は毒づいたが、その視線もまた、同じ空を仰いでいた。

 花壇には、泥を被りながらも、しっかりと頭をもたげたパンジーが並んでいる。
 カイトの指先についた泥。
 源三の車椅子の車輪にこびりついた土。
 それらは、二人が今日、確かに「一緒に何かを作り直した」という証だった。

「佐々木君。腹が減った。今日の昼飯は何だ」
 源三がぶっきらぼうに尋ねる。
「今日は、三色丼ですよ。佐藤さんの好きな、甘いそぼろです」
「甘すぎるのは好かんと言っているだろう。……カイト、貴様も来るか。食べ残したら、私が説教してやる」

 カイトは、濡れた袖でゴシゴシと目を擦った。
「……残さないもん。じいさんより、いっぱい食べる」

 二人は並んで、建物の方へと動き出した。
 一人は車椅子をきしませ、一人はその横を跳ねるように歩く。
 結衣は、その後ろ姿を見送りながら、昨日拾い上げたあの木の積み木の温もりを思い出していた。

 ひだまりの屋根の下、小さな、けれど確かな何かが、雨上がりの土の中で芽吹こうとしていた。

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