6 / 28
第5話「失われた記憶、新しい記録」
しおりを挟む
「あら、雨が降ってきたかしら。洗濯物を取り込まなくちゃ」
窓の外は、雲一つない初夏の快晴だった。ひだまりが廊下に四角い模様を落とし、小さな埃がキラキラと踊っている。認知症を患うシズは、お気に入りの花柄のブラウスの裾を落ち着かなげに弄りながら、所在なく立ち上がった。
「シズさん、大丈夫ですよ。お外はとってもいいお天気」
結衣が優しく声をかけるが、シズの瞳はどこか遠い、ここではない「いつか」を見つめている。
「いいえ、行かなくちゃ。あの子が帰ってくるわ。お腹を空かせて……」
シズの徘徊が始まった。それは彼女にとって、失われた記憶の断片を拾い集めるための切実な旅なのだ。介護スタッフが止めようとすると、シズは怯えたように声を荒らげる。結衣が困り顔でシズの肩に手を置こうとしたその時、廊下の向こうからパタパタと軽い足音が響いた。
「シズおばあちゃん、お散歩? 私も行く!」
現れたのは、八歳の少女、ヒナだった。虐待によって心を閉ざしがちだった彼女だが、なぜかシズにだけは最初から懐いていた。ヒナは迷わず、シズの節くれだった温かい手を握りしめる。
「まあ、ヒナちゃん。雨なのに、傘も持たずに」
「大丈夫、私たちが守ってあげるから。ね、カイト君!」
後ろから、照れくさそうにカイトが顔を出した。その手には、寺子屋で作ったばかりの竹とんぼが握られている。
「……しょうがねえな。じいさんに『護衛』を頼まれたんだ。シズさん、こっちだよ」
結衣は驚いて目を見開いた。いつもならスタッフが懸命に説得して部屋へ戻そうとするシズが、子供たちの手を引かれるまま、穏やかな表情で歩き出したのだ。
「お散歩の、護衛か……」
結衣は二人の背中を追いかけた。
庭に出ると、初夏の草いきれが鼻を突いた。湿った土と、咲き誇るラベンダーの爽やかな香りが混ざり合う。
「見て、シズおばあちゃん。あそこに蝶々がいるよ」
ヒナが指差す先を、シズは目を細めて眺める。
「本当ねぇ。あの子も、お家に帰る途中かしら」
シズの言葉は支離滅裂なこともある。けれど、ヒナはそれを否定しない。「そうだね」「お腹空いてるのかな」と、シズの世界にそっと寄り添う。子供たちにとって、シズが「今」を忘れてしまうことは、それほど大きな問題ではないようだった。だって、今この瞬間に繋いでいる手の温もりは本物だから。
カイトは少し離れたところで、警備員のような顔をして周囲を見渡している。
「カイト君、そっちは危なくない?」
結衣が尋ねると、カイトは少し胸を張った。
「段差があるから、じいさんが『ちゃんと見てろ』って。シズさん、足元気をつけて」
「まあ、優しい騎士(ナイト)様ねぇ」
シズが鈴を転がすような声で笑った。
ふと、シズが足を止めた。
「……ここは、どこかしら。私、帰らなくちゃいけないのに」
急に不安が顔をもたげる。シズの瞳が泳ぎ、呼吸が浅くなる。結衣が慌てて駆け寄ろうとしたが、それより先にヒナが動いた。
「おばあちゃん、大丈夫。ここは『ひだまりの家』だよ。みんなのお家だよ」
ヒナはシズの腰を抱くようにして、その背中をトントンと優しく叩いた。それは、かつてヒナが寂しくて泣いていた時に、シズがしてくれたことの裏返しだった。
「……ひだまりの、お家……」
「そう。夕ご飯は、私の好きなオムライスだって。一緒に食べよう?」
シズの強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
「……そうね。オムライス、いいわねぇ。あの子にも食べさせてあげたいわ」
シズの「あの子」が誰なのか、もう本人にもわかっていないのかもしれない。けれど、ヒナと手を繋いで歩くシズの後ろ姿は、紛れもなく「今」を生きる幸せな老人のものだった。
テラスからその様子を眺めていた源三が、隣に立つ結衣にボソリと言った。
「大人が理屈で縛り付けるから、迷子になるんだ。子供は、ただ隣を歩く。それでいいんだよ」
「佐藤さん……。スタッフも、みんな驚いています。シズさんの笑顔が増えたって」
源三はフン、と鼻を鳴らした。
「記録に残らん記憶が消えても、あの子たちの心には新しい記録が書き込まれていく。それでいいじゃないか」
夕暮れが近づき、庭は黄金色の光に包まれていく。
シズとヒナ、そして少し離れて歩くカイト。
影が長く伸びて、三つの影がひとつの大きな家族のように重なり合った。
「さあ、お家に帰りましょう」
ヒナの声に、シズが「はい」と素直に頷く。
失われていく記憶の砂時計の中で、今この瞬間に刻まれる新しい足跡。
それは、どんなに時間が経っても消えることのない、温かな「記録」となって、ひだまりの屋根の下に積み重なっていく。
結衣は、ジョウロを持って立ち尽くしながら、その光景を心のシャッターに刻みつけた。
窓の外は、雲一つない初夏の快晴だった。ひだまりが廊下に四角い模様を落とし、小さな埃がキラキラと踊っている。認知症を患うシズは、お気に入りの花柄のブラウスの裾を落ち着かなげに弄りながら、所在なく立ち上がった。
「シズさん、大丈夫ですよ。お外はとってもいいお天気」
結衣が優しく声をかけるが、シズの瞳はどこか遠い、ここではない「いつか」を見つめている。
「いいえ、行かなくちゃ。あの子が帰ってくるわ。お腹を空かせて……」
シズの徘徊が始まった。それは彼女にとって、失われた記憶の断片を拾い集めるための切実な旅なのだ。介護スタッフが止めようとすると、シズは怯えたように声を荒らげる。結衣が困り顔でシズの肩に手を置こうとしたその時、廊下の向こうからパタパタと軽い足音が響いた。
「シズおばあちゃん、お散歩? 私も行く!」
現れたのは、八歳の少女、ヒナだった。虐待によって心を閉ざしがちだった彼女だが、なぜかシズにだけは最初から懐いていた。ヒナは迷わず、シズの節くれだった温かい手を握りしめる。
「まあ、ヒナちゃん。雨なのに、傘も持たずに」
「大丈夫、私たちが守ってあげるから。ね、カイト君!」
後ろから、照れくさそうにカイトが顔を出した。その手には、寺子屋で作ったばかりの竹とんぼが握られている。
「……しょうがねえな。じいさんに『護衛』を頼まれたんだ。シズさん、こっちだよ」
結衣は驚いて目を見開いた。いつもならスタッフが懸命に説得して部屋へ戻そうとするシズが、子供たちの手を引かれるまま、穏やかな表情で歩き出したのだ。
「お散歩の、護衛か……」
結衣は二人の背中を追いかけた。
庭に出ると、初夏の草いきれが鼻を突いた。湿った土と、咲き誇るラベンダーの爽やかな香りが混ざり合う。
「見て、シズおばあちゃん。あそこに蝶々がいるよ」
ヒナが指差す先を、シズは目を細めて眺める。
「本当ねぇ。あの子も、お家に帰る途中かしら」
シズの言葉は支離滅裂なこともある。けれど、ヒナはそれを否定しない。「そうだね」「お腹空いてるのかな」と、シズの世界にそっと寄り添う。子供たちにとって、シズが「今」を忘れてしまうことは、それほど大きな問題ではないようだった。だって、今この瞬間に繋いでいる手の温もりは本物だから。
カイトは少し離れたところで、警備員のような顔をして周囲を見渡している。
「カイト君、そっちは危なくない?」
結衣が尋ねると、カイトは少し胸を張った。
「段差があるから、じいさんが『ちゃんと見てろ』って。シズさん、足元気をつけて」
「まあ、優しい騎士(ナイト)様ねぇ」
シズが鈴を転がすような声で笑った。
ふと、シズが足を止めた。
「……ここは、どこかしら。私、帰らなくちゃいけないのに」
急に不安が顔をもたげる。シズの瞳が泳ぎ、呼吸が浅くなる。結衣が慌てて駆け寄ろうとしたが、それより先にヒナが動いた。
「おばあちゃん、大丈夫。ここは『ひだまりの家』だよ。みんなのお家だよ」
ヒナはシズの腰を抱くようにして、その背中をトントンと優しく叩いた。それは、かつてヒナが寂しくて泣いていた時に、シズがしてくれたことの裏返しだった。
「……ひだまりの、お家……」
「そう。夕ご飯は、私の好きなオムライスだって。一緒に食べよう?」
シズの強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
「……そうね。オムライス、いいわねぇ。あの子にも食べさせてあげたいわ」
シズの「あの子」が誰なのか、もう本人にもわかっていないのかもしれない。けれど、ヒナと手を繋いで歩くシズの後ろ姿は、紛れもなく「今」を生きる幸せな老人のものだった。
テラスからその様子を眺めていた源三が、隣に立つ結衣にボソリと言った。
「大人が理屈で縛り付けるから、迷子になるんだ。子供は、ただ隣を歩く。それでいいんだよ」
「佐藤さん……。スタッフも、みんな驚いています。シズさんの笑顔が増えたって」
源三はフン、と鼻を鳴らした。
「記録に残らん記憶が消えても、あの子たちの心には新しい記録が書き込まれていく。それでいいじゃないか」
夕暮れが近づき、庭は黄金色の光に包まれていく。
シズとヒナ、そして少し離れて歩くカイト。
影が長く伸びて、三つの影がひとつの大きな家族のように重なり合った。
「さあ、お家に帰りましょう」
ヒナの声に、シズが「はい」と素直に頷く。
失われていく記憶の砂時計の中で、今この瞬間に刻まれる新しい足跡。
それは、どんなに時間が経っても消えることのない、温かな「記録」となって、ひだまりの屋根の下に積み重なっていく。
結衣は、ジョウロを持って立ち尽くしながら、その光景を心のシャッターに刻みつけた。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる