『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第5話「失われた記憶、新しい記録」

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「あら、雨が降ってきたかしら。洗濯物を取り込まなくちゃ」

 窓の外は、雲一つない初夏の快晴だった。ひだまりが廊下に四角い模様を落とし、小さな埃がキラキラと踊っている。認知症を患うシズは、お気に入りの花柄のブラウスの裾を落ち着かなげに弄りながら、所在なく立ち上がった。

「シズさん、大丈夫ですよ。お外はとってもいいお天気」
 結衣が優しく声をかけるが、シズの瞳はどこか遠い、ここではない「いつか」を見つめている。
「いいえ、行かなくちゃ。あの子が帰ってくるわ。お腹を空かせて……」

 シズの徘徊が始まった。それは彼女にとって、失われた記憶の断片を拾い集めるための切実な旅なのだ。介護スタッフが止めようとすると、シズは怯えたように声を荒らげる。結衣が困り顔でシズの肩に手を置こうとしたその時、廊下の向こうからパタパタと軽い足音が響いた。

「シズおばあちゃん、お散歩? 私も行く!」

 現れたのは、八歳の少女、ヒナだった。虐待によって心を閉ざしがちだった彼女だが、なぜかシズにだけは最初から懐いていた。ヒナは迷わず、シズの節くれだった温かい手を握りしめる。

「まあ、ヒナちゃん。雨なのに、傘も持たずに」
「大丈夫、私たちが守ってあげるから。ね、カイト君!」

 後ろから、照れくさそうにカイトが顔を出した。その手には、寺子屋で作ったばかりの竹とんぼが握られている。

「……しょうがねえな。じいさんに『護衛』を頼まれたんだ。シズさん、こっちだよ」

 結衣は驚いて目を見開いた。いつもならスタッフが懸命に説得して部屋へ戻そうとするシズが、子供たちの手を引かれるまま、穏やかな表情で歩き出したのだ。

「お散歩の、護衛か……」
 結衣は二人の背中を追いかけた。

 庭に出ると、初夏の草いきれが鼻を突いた。湿った土と、咲き誇るラベンダーの爽やかな香りが混ざり合う。
「見て、シズおばあちゃん。あそこに蝶々がいるよ」
 ヒナが指差す先を、シズは目を細めて眺める。
「本当ねぇ。あの子も、お家に帰る途中かしら」

 シズの言葉は支離滅裂なこともある。けれど、ヒナはそれを否定しない。「そうだね」「お腹空いてるのかな」と、シズの世界にそっと寄り添う。子供たちにとって、シズが「今」を忘れてしまうことは、それほど大きな問題ではないようだった。だって、今この瞬間に繋いでいる手の温もりは本物だから。

 カイトは少し離れたところで、警備員のような顔をして周囲を見渡している。
「カイト君、そっちは危なくない?」
 結衣が尋ねると、カイトは少し胸を張った。
「段差があるから、じいさんが『ちゃんと見てろ』って。シズさん、足元気をつけて」
「まあ、優しい騎士(ナイト)様ねぇ」
 シズが鈴を転がすような声で笑った。

 ふと、シズが足を止めた。
「……ここは、どこかしら。私、帰らなくちゃいけないのに」
 急に不安が顔をもたげる。シズの瞳が泳ぎ、呼吸が浅くなる。結衣が慌てて駆け寄ろうとしたが、それより先にヒナが動いた。

「おばあちゃん、大丈夫。ここは『ひだまりの家』だよ。みんなのお家だよ」
 ヒナはシズの腰を抱くようにして、その背中をトントンと優しく叩いた。それは、かつてヒナが寂しくて泣いていた時に、シズがしてくれたことの裏返しだった。

「……ひだまりの、お家……」
「そう。夕ご飯は、私の好きなオムライスだって。一緒に食べよう?」
 シズの強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
「……そうね。オムライス、いいわねぇ。あの子にも食べさせてあげたいわ」

 シズの「あの子」が誰なのか、もう本人にもわかっていないのかもしれない。けれど、ヒナと手を繋いで歩くシズの後ろ姿は、紛れもなく「今」を生きる幸せな老人のものだった。

 テラスからその様子を眺めていた源三が、隣に立つ結衣にボソリと言った。
「大人が理屈で縛り付けるから、迷子になるんだ。子供は、ただ隣を歩く。それでいいんだよ」
「佐藤さん……。スタッフも、みんな驚いています。シズさんの笑顔が増えたって」

 源三はフン、と鼻を鳴らした。
「記録に残らん記憶が消えても、あの子たちの心には新しい記録が書き込まれていく。それでいいじゃないか」

 夕暮れが近づき、庭は黄金色の光に包まれていく。
 シズとヒナ、そして少し離れて歩くカイト。
 影が長く伸びて、三つの影がひとつの大きな家族のように重なり合った。

「さあ、お家に帰りましょう」
 ヒナの声に、シズが「はい」と素直に頷く。
 
 失われていく記憶の砂時計の中で、今この瞬間に刻まれる新しい足跡。
 それは、どんなに時間が経っても消えることのない、温かな「記録」となって、ひだまりの屋根の下に積み重なっていく。

結衣は、ジョウロを持って立ち尽くしながら、その光景を心のシャッターに刻みつけた。
 

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