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第6話「誕生日の奇跡」
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六月の蒸し暑い空気が、施設の廊下にまとわりついていた。
カイトにとって、自分の誕生日は「一年で一番、自分の存在が邪魔だと教えられる日」だった。かつて暮らしていた家では、誕生日は父親が酒を飲む口実に過ぎず、母親は「あんたさえ産まなければ」と呪文のように繰り返した。
だから、カイトは誰にも言わなかった。ひだまりの家のカレンダーに自分の名前を書き込むこともしなかった。
「おい、カイト。何をぼさっとしている」
リハビリ室の隅で、佐藤源三が車椅子から鋭い声を飛ばした。その膝の上には、古い木材の板と、目の細かい紙やすりが置かれている。
「……別に。ただの木じゃん。何してんの」
「フン、貴様のような素人にはわからん。これは『柾目(まさめ)』といってな、気の遠くなるような時間をかけて育った樹木だけが持つ、魂の筋だ」
源三は、カサカサに乾いた指先で丁寧に木を撫でた。リハビリ室には、削りたてのヒノキの清涼な香りが、霧のように立ち込めている。その匂いを嗅ぐと、カイトの荒んだ心も、少しだけ凪ぐような気がした。
「……じいさん、最近ずっとそれやってるよね。何作るの?」
「知らんでいい。それより貴様、漢字のドリルは終わったのか」
「あー、もう! すぐ勉強の話にするんだから」
カイトは逃げるようにその場を去った。源三が、その背中を愛おしそうに見つめていたことには気づかずに。
その日の夜。カイトは子供棟のベッドの中で、毛布を頭まで被っていた。
十歳になった。二桁だ。でも、何も変わらない。窓の外で鳴くカエルの声が、孤独を助長するように響く。
(おめでとうなんて、いらない。期待しなきゃ、傷つかないから)
そう自分に言い聞かせて、ぎゅっと目を閉じた。
翌朝、朝食の席でもカイトは不機嫌を装っていた。だが、結衣がどこかソワソワしている。
「カイト君、ちょっといいかな? 佐藤さんが、交流スペースで待ってるの。どうしても貴様を呼んでこいって、怒鳴られちゃって」
「……また説教かよ」
カイトは重い足取りで交流スペースへ向かった。
そこには、入居者たちが何事かを取り囲むように集まっていた。源三は、その中心で、泰然と車椅子に座っていた。
「遅いぞ、カイト。校長室なら遅刻で立たせているところだ」
「うるさいなあ、なんの用だよ」
「これを、受け取れ」
源三が、膝の上に置いていた風呂敷包みを、ぶっきらぼうに差し出した。
カイトは戸惑いながら、その包みを解いた。
現れたのは、黄金色に輝く、美しい手作りの将棋盤だった。
「これ……」
「リハビリの端材で作った。駒はまだ足りんが、盤だけは仕上げた。……今日は、貴様の十回目の始業式のようなものだろう」
カイトの指先が、滑らかな木の表面に触れた。
驚くほど、温かかった。
ただの木ではない。何千回、何万回と紙やすりで磨かれたのであろうその表面は、鏡のように光を反射している。源三の指の腹が真っ赤になるまで磨き上げられた、執念のような愛情が、指先からカイトの心臓へと直接流れ込んでくる。
「じいさんが……僕のために、作ったの?」
「当たり前だ。他に誰がいる。貴様は筋がいいと言っただろう。私のライバルになる男が、ボロいプラスチックの盤で指しているのは我慢ならんのでな」
カイトは絶句した。
自分のために、誰かが時間を使い、指を痛め、何かを「完成」させてくれた。
「いらない子」だったはずの自分のために。
「……佐藤先生、昨日の夜も遅くまで磨いてらしたのよ」
シズが横から、クスクスと笑いながら教えてくれた。
「『あの子の将来は、この柾目のように真っ直ぐでなきゃいかん』なんて、難しい顔をしてねぇ」
その言葉が、カイトの心の堤防を粉々に砕いた。
鼻の奥がツンと痛み、視界が急激に歪む。
「……う、うわああああああ!」
カイトは将棋盤を抱きしめたまま、その場に泣き崩れた。
今まで、虐待を受けても、施設に預けられても、歯を食いしばって耐えてきた。涙を流せば、負けだと思っていたから。でも、今の涙は止まらなかった。
「なんだ、気に入らんのか」
源三の声が、少しだけ震えている。
「違う……違うよ……。嬉しい……嬉しいんだもん……!」
カイトの涙が、塗りたての将棋盤にポタリと落ちた。
源三は、震える手でカイトの頭を撫でた。ゴツゴツとした、節くれだった大きな手。
「泣くな。男だろう。……十歳。良い年だ。これからいくらでも、新しい手を指せる」
カイトは泣きながら、源三の膝に顔を埋めた。
源三の服から漂う、湿布の匂いと、少し焦げたようなお茶の匂い。
それが、カイトにとって「本当の家族」の匂いになった瞬間だった。
結衣は、溢れる涙を隠さずにその光景を見守っていた。
血の繋がりなど、何の意味もない。
誰かを想い、誰かのために手を汚し、その幸せを願う。
その重なりだけが、人を家族にするのだ。
「カイト、今日から特訓だ。まずは、私に勝ってみろ」
「……勝つよ。じいさんを、こてんぱんにしてやる」
カイトは顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃの笑顔を見せた。
窓から差し込む六月の光が、二人の手元にある将棋盤を、世界で一番価値のある黄金の板へと変えていた。
ひだまりの屋根の下、一人の少年の孤独が、一人の老人の誇りによって、静かに癒されていった。
カイトにとって、自分の誕生日は「一年で一番、自分の存在が邪魔だと教えられる日」だった。かつて暮らしていた家では、誕生日は父親が酒を飲む口実に過ぎず、母親は「あんたさえ産まなければ」と呪文のように繰り返した。
だから、カイトは誰にも言わなかった。ひだまりの家のカレンダーに自分の名前を書き込むこともしなかった。
「おい、カイト。何をぼさっとしている」
リハビリ室の隅で、佐藤源三が車椅子から鋭い声を飛ばした。その膝の上には、古い木材の板と、目の細かい紙やすりが置かれている。
「……別に。ただの木じゃん。何してんの」
「フン、貴様のような素人にはわからん。これは『柾目(まさめ)』といってな、気の遠くなるような時間をかけて育った樹木だけが持つ、魂の筋だ」
源三は、カサカサに乾いた指先で丁寧に木を撫でた。リハビリ室には、削りたてのヒノキの清涼な香りが、霧のように立ち込めている。その匂いを嗅ぐと、カイトの荒んだ心も、少しだけ凪ぐような気がした。
「……じいさん、最近ずっとそれやってるよね。何作るの?」
「知らんでいい。それより貴様、漢字のドリルは終わったのか」
「あー、もう! すぐ勉強の話にするんだから」
カイトは逃げるようにその場を去った。源三が、その背中を愛おしそうに見つめていたことには気づかずに。
その日の夜。カイトは子供棟のベッドの中で、毛布を頭まで被っていた。
十歳になった。二桁だ。でも、何も変わらない。窓の外で鳴くカエルの声が、孤独を助長するように響く。
(おめでとうなんて、いらない。期待しなきゃ、傷つかないから)
そう自分に言い聞かせて、ぎゅっと目を閉じた。
翌朝、朝食の席でもカイトは不機嫌を装っていた。だが、結衣がどこかソワソワしている。
「カイト君、ちょっといいかな? 佐藤さんが、交流スペースで待ってるの。どうしても貴様を呼んでこいって、怒鳴られちゃって」
「……また説教かよ」
カイトは重い足取りで交流スペースへ向かった。
そこには、入居者たちが何事かを取り囲むように集まっていた。源三は、その中心で、泰然と車椅子に座っていた。
「遅いぞ、カイト。校長室なら遅刻で立たせているところだ」
「うるさいなあ、なんの用だよ」
「これを、受け取れ」
源三が、膝の上に置いていた風呂敷包みを、ぶっきらぼうに差し出した。
カイトは戸惑いながら、その包みを解いた。
現れたのは、黄金色に輝く、美しい手作りの将棋盤だった。
「これ……」
「リハビリの端材で作った。駒はまだ足りんが、盤だけは仕上げた。……今日は、貴様の十回目の始業式のようなものだろう」
カイトの指先が、滑らかな木の表面に触れた。
驚くほど、温かかった。
ただの木ではない。何千回、何万回と紙やすりで磨かれたのであろうその表面は、鏡のように光を反射している。源三の指の腹が真っ赤になるまで磨き上げられた、執念のような愛情が、指先からカイトの心臓へと直接流れ込んでくる。
「じいさんが……僕のために、作ったの?」
「当たり前だ。他に誰がいる。貴様は筋がいいと言っただろう。私のライバルになる男が、ボロいプラスチックの盤で指しているのは我慢ならんのでな」
カイトは絶句した。
自分のために、誰かが時間を使い、指を痛め、何かを「完成」させてくれた。
「いらない子」だったはずの自分のために。
「……佐藤先生、昨日の夜も遅くまで磨いてらしたのよ」
シズが横から、クスクスと笑いながら教えてくれた。
「『あの子の将来は、この柾目のように真っ直ぐでなきゃいかん』なんて、難しい顔をしてねぇ」
その言葉が、カイトの心の堤防を粉々に砕いた。
鼻の奥がツンと痛み、視界が急激に歪む。
「……う、うわああああああ!」
カイトは将棋盤を抱きしめたまま、その場に泣き崩れた。
今まで、虐待を受けても、施設に預けられても、歯を食いしばって耐えてきた。涙を流せば、負けだと思っていたから。でも、今の涙は止まらなかった。
「なんだ、気に入らんのか」
源三の声が、少しだけ震えている。
「違う……違うよ……。嬉しい……嬉しいんだもん……!」
カイトの涙が、塗りたての将棋盤にポタリと落ちた。
源三は、震える手でカイトの頭を撫でた。ゴツゴツとした、節くれだった大きな手。
「泣くな。男だろう。……十歳。良い年だ。これからいくらでも、新しい手を指せる」
カイトは泣きながら、源三の膝に顔を埋めた。
源三の服から漂う、湿布の匂いと、少し焦げたようなお茶の匂い。
それが、カイトにとって「本当の家族」の匂いになった瞬間だった。
結衣は、溢れる涙を隠さずにその光景を見守っていた。
血の繋がりなど、何の意味もない。
誰かを想い、誰かのために手を汚し、その幸せを願う。
その重なりだけが、人を家族にするのだ。
「カイト、今日から特訓だ。まずは、私に勝ってみろ」
「……勝つよ。じいさんを、こてんぱんにしてやる」
カイトは顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃの笑顔を見せた。
窓から差し込む六月の光が、二人の手元にある将棋盤を、世界で一番価値のある黄金の板へと変えていた。
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