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第7話「虐待の影と老いの恐怖」
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「カイト! どこだ、カイト!」
静かな午後のラウンジに、泥靴で踏み荒らされたような怒号が響いた。
自動ドアを無理やりこじ開けるようにして入ってきたのは、酒の匂いと煙草のヤニ臭さを纏った一人の男だった。カイトの実父、正二。その目は血走り、無精髭に覆われた口元からは、苛立ちが唾液と共に漏れ出している。
「カイト、出てこい! 親に向かって挨拶もなしに逃げやがって。金さえあれば、お前を引き取ってやるって言ってんだ!」
その声を聞いた瞬間、交流スペースで源三と将棋を指していたカイトの顔から、血の気が一気に失せた。
カイトの手から、あの手作りの将棋駒がポロリと床に落ちる。乾いた音。それはカイトの心の何かが折れた音のようだった。
「……ひ、っ……」
カイトの瞳が大きく見開かれ、呼吸が浅くなる。過呼吸だ。かつて、暗い部屋で、この怒声の後に必ず訪れた痛みの記憶が、黒い濁流となって彼を飲み込もうとしていた。
「カイト君、こっちへ!」
結衣が駆け寄るが、正二の怒鳴り声に足がすくむ。
「邪魔だ、ねえちゃん! 俺は親だぞ。自分のガキを連れて帰って何が悪い!」
正二がカイトに向かって大きく一歩踏み出した。その時。
――ガタッ。
いくつもの車椅子が、あるいは杖をつく足音が、カイトの前に立ちふさがった。
先頭にいたのは、佐藤源三だった。彼は自らの車椅子を正二の進行方向に横付けし、氷のような冷徹な眼差しで男を見上げた。
「……やかましいぞ、放蕩息子」
「あぁ? なんだこのジジイ。どけよ、死に損ない!」
正二が源三の肩を突き飛ばそうとする。だが、源三の横には、いつの間にか「ひだまり寺子屋」の老人たちが並んでいた。元大工の老人、シズ、そして杖を突いた入居者たちが、一列に、まるで一枚の「壁」のようにカイトを遮ったのだ。
「ここは学校ではないが、私が校長なら貴様は即刻退場だ」
源三の声は、驚くほど低く、重かった。
「この子は今、私と対局中だ。部外者は黙って去れ」
「ふざけんな! 俺は血の繋がった父親なんだよ!」
「血だと?」
源三は、鼻で笑った。
「あの子に木の温もりを教えたのは誰だ。あの子の涙を拭ったのは誰だ。……あの子の将棋の癖を知っているのは、この私だ。貴様ではない」
ラウンジには、正二の放つ腐った酒の匂いと、対照的に老人たちが放つ湿布や石鹸の匂いが混ざり合い、異様な緊張感が漂っていた。
正二は怯んだ。目の前にいるのは、ただの「弱々しい老人たち」ではなかった。長い年月を生き抜き、痛みを知り、そして今、一人の子供を守るという確固たる意志を持った「守護者」の集団だった。
「カイト、聞くんだ」
源三は背後にいるカイトを振り返らず、前を見据えたまま言った。
「貴様の敵は、目の前の男ではない。貴様の心にある、恐怖だ。……大丈夫だ。この『壁』は、貴様が逃げるためのものではない。貴様が立ち上がるための、砦だ」
カイトは、源三の背中を見つめた。
細く、丸まった背中。けれど、その背中は今のカイトにとって、どんな山よりも高く、頼もしいものに見えた。
「……じい、さん……」
カイトは震える手で、落ちた駒を拾い上げた。
「……帰れよ。僕、ここにいたいんだ。じいさんと、みんなと一緒にいたいんだ!」
子供の真っ直ぐな拒絶は、正二にとって最大の屈辱だった。正二が再び暴れようとしたところで、通報を受けた警察官たちがなだれ込んできた。
「離せ! クソッ、どいつもこいつも……!」
正二が引きずり出されていく。その怒声が遠ざかるにつれ、施設内にようやく静寂が戻ってきた。
「……終わったよ、カイト君」
結衣がカイトの肩を抱く。カイトは我慢していた涙を溢れさせ、老人たちの背中に向かって深々と頭を下げた。
だが、その時だった。
「……ぬ、うっ」
最前線にいた源三が、急に胸を押さえて激しく咳き込んだ。
「佐藤さん!?」
結衣が駆け寄ると、源三の顔は土色に変わり、脂汗が浮き出ていた。車椅子を握る指先が、痙攣するように震えている。
「……なんでも、ない……。ただの、老いぼれの、疲れだ……」
源三は強がったが、その視線は定まらず、崩れるように車椅子からずり落ちそうになった。
カイトは目を見開いた。
さっきまで、あんなに大きく見えた「壁」が、目の前で今にも崩れようとしている。
「じいさん! じいさん、しっかりしろよ!」
カイトが源三の細い腕を掴む。
その腕は、驚くほど冷たく、そして軽かった。
源三は、薄れゆく意識の中で、カイトの手の熱さを感じていた。
(ああ……カイト。貴様はもう、一人で駒を動かせる……)
救急車のサイレンの音が、遠くから聞こえてくる。
虐待という影を追い払った直後に訪れた、残酷な「老い」という現実。
ひだまりの屋根を激しい風が叩き、季節が急ぎ足で変わろうとしていた。
「じいさん、死ぬな! まだ僕、じいさんに勝ってないんだぞ!」
カイトの叫びが、夕暮れの廊下に空虚に響いた。
静かな午後のラウンジに、泥靴で踏み荒らされたような怒号が響いた。
自動ドアを無理やりこじ開けるようにして入ってきたのは、酒の匂いと煙草のヤニ臭さを纏った一人の男だった。カイトの実父、正二。その目は血走り、無精髭に覆われた口元からは、苛立ちが唾液と共に漏れ出している。
「カイト、出てこい! 親に向かって挨拶もなしに逃げやがって。金さえあれば、お前を引き取ってやるって言ってんだ!」
その声を聞いた瞬間、交流スペースで源三と将棋を指していたカイトの顔から、血の気が一気に失せた。
カイトの手から、あの手作りの将棋駒がポロリと床に落ちる。乾いた音。それはカイトの心の何かが折れた音のようだった。
「……ひ、っ……」
カイトの瞳が大きく見開かれ、呼吸が浅くなる。過呼吸だ。かつて、暗い部屋で、この怒声の後に必ず訪れた痛みの記憶が、黒い濁流となって彼を飲み込もうとしていた。
「カイト君、こっちへ!」
結衣が駆け寄るが、正二の怒鳴り声に足がすくむ。
「邪魔だ、ねえちゃん! 俺は親だぞ。自分のガキを連れて帰って何が悪い!」
正二がカイトに向かって大きく一歩踏み出した。その時。
――ガタッ。
いくつもの車椅子が、あるいは杖をつく足音が、カイトの前に立ちふさがった。
先頭にいたのは、佐藤源三だった。彼は自らの車椅子を正二の進行方向に横付けし、氷のような冷徹な眼差しで男を見上げた。
「……やかましいぞ、放蕩息子」
「あぁ? なんだこのジジイ。どけよ、死に損ない!」
正二が源三の肩を突き飛ばそうとする。だが、源三の横には、いつの間にか「ひだまり寺子屋」の老人たちが並んでいた。元大工の老人、シズ、そして杖を突いた入居者たちが、一列に、まるで一枚の「壁」のようにカイトを遮ったのだ。
「ここは学校ではないが、私が校長なら貴様は即刻退場だ」
源三の声は、驚くほど低く、重かった。
「この子は今、私と対局中だ。部外者は黙って去れ」
「ふざけんな! 俺は血の繋がった父親なんだよ!」
「血だと?」
源三は、鼻で笑った。
「あの子に木の温もりを教えたのは誰だ。あの子の涙を拭ったのは誰だ。……あの子の将棋の癖を知っているのは、この私だ。貴様ではない」
ラウンジには、正二の放つ腐った酒の匂いと、対照的に老人たちが放つ湿布や石鹸の匂いが混ざり合い、異様な緊張感が漂っていた。
正二は怯んだ。目の前にいるのは、ただの「弱々しい老人たち」ではなかった。長い年月を生き抜き、痛みを知り、そして今、一人の子供を守るという確固たる意志を持った「守護者」の集団だった。
「カイト、聞くんだ」
源三は背後にいるカイトを振り返らず、前を見据えたまま言った。
「貴様の敵は、目の前の男ではない。貴様の心にある、恐怖だ。……大丈夫だ。この『壁』は、貴様が逃げるためのものではない。貴様が立ち上がるための、砦だ」
カイトは、源三の背中を見つめた。
細く、丸まった背中。けれど、その背中は今のカイトにとって、どんな山よりも高く、頼もしいものに見えた。
「……じい、さん……」
カイトは震える手で、落ちた駒を拾い上げた。
「……帰れよ。僕、ここにいたいんだ。じいさんと、みんなと一緒にいたいんだ!」
子供の真っ直ぐな拒絶は、正二にとって最大の屈辱だった。正二が再び暴れようとしたところで、通報を受けた警察官たちがなだれ込んできた。
「離せ! クソッ、どいつもこいつも……!」
正二が引きずり出されていく。その怒声が遠ざかるにつれ、施設内にようやく静寂が戻ってきた。
「……終わったよ、カイト君」
結衣がカイトの肩を抱く。カイトは我慢していた涙を溢れさせ、老人たちの背中に向かって深々と頭を下げた。
だが、その時だった。
「……ぬ、うっ」
最前線にいた源三が、急に胸を押さえて激しく咳き込んだ。
「佐藤さん!?」
結衣が駆け寄ると、源三の顔は土色に変わり、脂汗が浮き出ていた。車椅子を握る指先が、痙攣するように震えている。
「……なんでも、ない……。ただの、老いぼれの、疲れだ……」
源三は強がったが、その視線は定まらず、崩れるように車椅子からずり落ちそうになった。
カイトは目を見開いた。
さっきまで、あんなに大きく見えた「壁」が、目の前で今にも崩れようとしている。
「じいさん! じいさん、しっかりしろよ!」
カイトが源三の細い腕を掴む。
その腕は、驚くほど冷たく、そして軽かった。
源三は、薄れゆく意識の中で、カイトの手の熱さを感じていた。
(ああ……カイト。貴様はもう、一人で駒を動かせる……)
救急車のサイレンの音が、遠くから聞こえてくる。
虐待という影を追い払った直後に訪れた、残酷な「老い」という現実。
ひだまりの屋根を激しい風が叩き、季節が急ぎ足で変わろうとしていた。
「じいさん、死ぬな! まだ僕、じいさんに勝ってないんだぞ!」
カイトの叫びが、夕暮れの廊下に空虚に響いた。
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