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第8話「命の授業」
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「ひだまりの家」の三階、一番奥の部屋。
そこには、いつも廊下に響いていた車椅子のきしむ音も、厳格な元校長の怒声もなかった。あるのは、消毒液の微かな匂いと、機械的なリズムを刻む酸素濃縮器の低く重い音だけだ。
カイトは、その部屋のドアの前で一度立ち止まった。手には、学校でもらった「百点」のテストと、庭で摘んだばかりの、少し萎れたパンジーが握られている。
「……じいさん、入るよ」
声を低くして入った部屋の中は、初夏の光がカーテン越しに柔らかく入り込み、どこか浮世離れした静けさに満ちていた。ベッドに横たわる佐藤源三は、この数週間で驚くほど小さくなっていた。あの時、カイトの前に立ちふさがった威厳のある「壁」は、今やシーツの海に沈みそうなほど薄い。
「……おう、カイトか。また来たのか、暇人め」
源三の声は、枯れ葉がこすれ合うような微かな響きだった。それでも、眼鏡の奥の眼光だけは、消えかけの炭火のように、静かに、執拗に灯っている。
「暇じゃないよ。学校で、割合のテストがあったんだ。ほら、見てよ。じいさんに教わったところ、全部正解だった」
カイトはベッドの脇に座り、誇らしげにテストを広げた。源三は、震える手で眼鏡を直すと、薄い文字を丹念に追った。
「……ふん。詰めが甘い。この三問目、単位を書き忘れているだろう。私なら九十五点だ」
「厳しいなあ、もう。でも、先生は褒めてくれたよ。『急に伸びたね』って」
「当然だ。私の弟子だからな……」
源三はそう言うと、激しく咳き込んだ。喉の奥で鳴る不快な音に、カイトの肩がビクッと跳ねる。カイトは慌てて、ぬるくなったお茶を吸い飲みに入れて差し出した。源三を支えるカイトの手は、この数ヶ月で少しだけ大きく、たくましくなっていた。
「……じいさん、いつになったらまた将棋指せる? 僕、新しい戦法を覚えたんだ。次は絶対負けないから」
カイトの問いに、源三は答えず、ただ窓の外を流れる雲を見つめていた。その瞳には、終わりゆく季節を惜しむような、深い哀愁が漂っている。
廊下では、結衣がそのやり取りをドア越しに聞いていた。彼女の胸には、鉛のような重みが居座っている。
カイトだけではない。ヒナや他の子供たちも、源三の変貌に戸惑い、怯えていた。
「佐藤おじいちゃん、死んじゃうの?」
昨日、ヒナにそう聞かれた時、結衣は「大丈夫だよ」という嘘を飲み込んだ。だが、本当のことを伝える勇気も、まだ持てていなかった。
「佐々木君、そこにいるんだろう。入りたまえ」
源三に見透かされ、結衣は背筋を伸ばして入室した。
「……佐藤さん。お加減はいかがですか」
「見ての通りだ。ガタのきた廃車と同じだよ」
源三は自嘲気味に笑い、カイトに目配せをした。
「カイト、外でヒナが呼んでいるぞ。竹とんぼを飛ばしに行け。私は佐々木君と大事な相談がある」
「えー、まだ話したいのに。……わかったよ。すぐ戻るからね、じいさん」
カイトが部屋を飛び出していく。その足音が遠ざかるのを待って、源三は結衣を真っ直ぐに見据えた。
「佐々木君。あの子たちに、死を教えるのは君の役目だ」
「……私には、まだ早すぎます。あの子たちは、もう十分に辛い経験をしてきたんです。これ以上、大切な人を失う痛みなんて……」
「違う」
源三の声に、かつての校長としての険しさが戻った。
「死は、喪失ではない。……バトンだ。私が死んでも、私がカイトに教えた『割合』も、花の植え方も、あの子の中に残る。それは、私が生き続けているということだ」
源三は、カイトが持ってきたパンジーを手に取った。
「この花は枯れる。だが、来年また種を落として芽吹く。……あの子たちに、それを伝えろ。形あるものが消えることを恐れるなと」
結衣の目から、一筋の涙がこぼれた。
源三の指先が、パンジーの花びらを優しく撫でる。その皮膚は驚くほど薄く、透き通っていた。
夕方、庭ではカイトとヒナが竹とんぼを飛ばしていた。
「高く飛べー!」
空に舞い上がる木片を見上げながら、カイトが叫ぶ。その声が、源三の部屋の窓まで届く。
結衣は二人を呼び寄せ、庭の大きな桜の木の下に座らせた。
「ねえ、カイト君、ヒナちゃん。命って、どこにあると思う?」
「心臓でしょ?」
カイトが即答する。結衣は微笑んで、カイトの手を握った。
「心臓もそうだけど、命は『贈り物』みたいなものなんだよ。佐藤さんがカイト君に将棋を教えた時、佐藤さんの命の半分は、カイト君の中に引っ越ししたの。だから、もし佐藤さんの体がいつかお休みしても、カイト君が将棋を指す時、そこにはいつも佐藤さんがいるんだよ」
カイトは黙って、自分の手を見つめた。源三と一緒に磨き上げた、あの将棋盤の感触が、掌に蘇ってくる。
「……消えないの?」
「うん。消えない。カイト君が、誰かにまた何かを教える時、その命はもっともっと先に繋がっていくんだよ。それが『命の授業』なんだって、佐藤さんが教えてくれたの」
風が吹き抜け、庭の緑がザワザワと音を立てた。
カイトは、三階の窓を見上げた。そこには、小さな人影がカーテンの隙間に見えた気がした。
「……じいさん、ずるいよ。そんな難しいこと、僕に黙って結衣ちゃんに教えるなんて」
カイトは唇を噛み締め、涙を堪えた。
その横で、ヒナが静かにシズさんの手を引いて歩いてくる。
ひだまりの屋根の下。
「死」という冷たい現実は、源三という一人の老人の言葉によって、温かな「継承」という光に形を変えようとしていた。
カイトは、ポケットの中の将棋の駒を握りしめた。
そこには、源三の指紋と、木の香りと、そして決して消えることのない「生」の重みが、確かに宿っていた。
「……明日も、テスト持って行くから。百点、取ってくるからね」
カイトの誓いは、初夏の空に溶け込んで、源三の眠る部屋へと届いていった。
そこには、いつも廊下に響いていた車椅子のきしむ音も、厳格な元校長の怒声もなかった。あるのは、消毒液の微かな匂いと、機械的なリズムを刻む酸素濃縮器の低く重い音だけだ。
カイトは、その部屋のドアの前で一度立ち止まった。手には、学校でもらった「百点」のテストと、庭で摘んだばかりの、少し萎れたパンジーが握られている。
「……じいさん、入るよ」
声を低くして入った部屋の中は、初夏の光がカーテン越しに柔らかく入り込み、どこか浮世離れした静けさに満ちていた。ベッドに横たわる佐藤源三は、この数週間で驚くほど小さくなっていた。あの時、カイトの前に立ちふさがった威厳のある「壁」は、今やシーツの海に沈みそうなほど薄い。
「……おう、カイトか。また来たのか、暇人め」
源三の声は、枯れ葉がこすれ合うような微かな響きだった。それでも、眼鏡の奥の眼光だけは、消えかけの炭火のように、静かに、執拗に灯っている。
「暇じゃないよ。学校で、割合のテストがあったんだ。ほら、見てよ。じいさんに教わったところ、全部正解だった」
カイトはベッドの脇に座り、誇らしげにテストを広げた。源三は、震える手で眼鏡を直すと、薄い文字を丹念に追った。
「……ふん。詰めが甘い。この三問目、単位を書き忘れているだろう。私なら九十五点だ」
「厳しいなあ、もう。でも、先生は褒めてくれたよ。『急に伸びたね』って」
「当然だ。私の弟子だからな……」
源三はそう言うと、激しく咳き込んだ。喉の奥で鳴る不快な音に、カイトの肩がビクッと跳ねる。カイトは慌てて、ぬるくなったお茶を吸い飲みに入れて差し出した。源三を支えるカイトの手は、この数ヶ月で少しだけ大きく、たくましくなっていた。
「……じいさん、いつになったらまた将棋指せる? 僕、新しい戦法を覚えたんだ。次は絶対負けないから」
カイトの問いに、源三は答えず、ただ窓の外を流れる雲を見つめていた。その瞳には、終わりゆく季節を惜しむような、深い哀愁が漂っている。
廊下では、結衣がそのやり取りをドア越しに聞いていた。彼女の胸には、鉛のような重みが居座っている。
カイトだけではない。ヒナや他の子供たちも、源三の変貌に戸惑い、怯えていた。
「佐藤おじいちゃん、死んじゃうの?」
昨日、ヒナにそう聞かれた時、結衣は「大丈夫だよ」という嘘を飲み込んだ。だが、本当のことを伝える勇気も、まだ持てていなかった。
「佐々木君、そこにいるんだろう。入りたまえ」
源三に見透かされ、結衣は背筋を伸ばして入室した。
「……佐藤さん。お加減はいかがですか」
「見ての通りだ。ガタのきた廃車と同じだよ」
源三は自嘲気味に笑い、カイトに目配せをした。
「カイト、外でヒナが呼んでいるぞ。竹とんぼを飛ばしに行け。私は佐々木君と大事な相談がある」
「えー、まだ話したいのに。……わかったよ。すぐ戻るからね、じいさん」
カイトが部屋を飛び出していく。その足音が遠ざかるのを待って、源三は結衣を真っ直ぐに見据えた。
「佐々木君。あの子たちに、死を教えるのは君の役目だ」
「……私には、まだ早すぎます。あの子たちは、もう十分に辛い経験をしてきたんです。これ以上、大切な人を失う痛みなんて……」
「違う」
源三の声に、かつての校長としての険しさが戻った。
「死は、喪失ではない。……バトンだ。私が死んでも、私がカイトに教えた『割合』も、花の植え方も、あの子の中に残る。それは、私が生き続けているということだ」
源三は、カイトが持ってきたパンジーを手に取った。
「この花は枯れる。だが、来年また種を落として芽吹く。……あの子たちに、それを伝えろ。形あるものが消えることを恐れるなと」
結衣の目から、一筋の涙がこぼれた。
源三の指先が、パンジーの花びらを優しく撫でる。その皮膚は驚くほど薄く、透き通っていた。
夕方、庭ではカイトとヒナが竹とんぼを飛ばしていた。
「高く飛べー!」
空に舞い上がる木片を見上げながら、カイトが叫ぶ。その声が、源三の部屋の窓まで届く。
結衣は二人を呼び寄せ、庭の大きな桜の木の下に座らせた。
「ねえ、カイト君、ヒナちゃん。命って、どこにあると思う?」
「心臓でしょ?」
カイトが即答する。結衣は微笑んで、カイトの手を握った。
「心臓もそうだけど、命は『贈り物』みたいなものなんだよ。佐藤さんがカイト君に将棋を教えた時、佐藤さんの命の半分は、カイト君の中に引っ越ししたの。だから、もし佐藤さんの体がいつかお休みしても、カイト君が将棋を指す時、そこにはいつも佐藤さんがいるんだよ」
カイトは黙って、自分の手を見つめた。源三と一緒に磨き上げた、あの将棋盤の感触が、掌に蘇ってくる。
「……消えないの?」
「うん。消えない。カイト君が、誰かにまた何かを教える時、その命はもっともっと先に繋がっていくんだよ。それが『命の授業』なんだって、佐藤さんが教えてくれたの」
風が吹き抜け、庭の緑がザワザワと音を立てた。
カイトは、三階の窓を見上げた。そこには、小さな人影がカーテンの隙間に見えた気がした。
「……じいさん、ずるいよ。そんな難しいこと、僕に黙って結衣ちゃんに教えるなんて」
カイトは唇を噛み締め、涙を堪えた。
その横で、ヒナが静かにシズさんの手を引いて歩いてくる。
ひだまりの屋根の下。
「死」という冷たい現実は、源三という一人の老人の言葉によって、温かな「継承」という光に形を変えようとしていた。
カイトは、ポケットの中の将棋の駒を握りしめた。
そこには、源三の指紋と、木の香りと、そして決して消えることのない「生」の重みが、確かに宿っていた。
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