『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第9話「本当の家族、選んだ家族」

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「ひだまりの家」に、重く、静かな夜が訪れていた。
 いつもなら廊下の隅々まで届く夕食の支度の音や、テレビから流れる笑い声が、今夜は霧に包まれたように遠い。空気はひんやりと張り詰め、湿った夜の草の匂いが、開け放たれた窓から忍び込んでいた。

 三階の奥の部屋。モニターが刻む電子音だけが、佐藤源三の命の残火をかろうじて繋ぎ止めていた。

「じいさん……」

 カイトは、ベッドの脇で丸い椅子に座り、源三の右手を両手で包み込んでいた。かつて自分を厳しく指差したあの手は、今は驚くほど薄く、冷たい。まるで使い古された紙細工のようだ。

「……カイトか。……顔を、上げろ」

 源三のまぶたが、ゆっくりと、震えながら開いた。眼鏡を外したその瞳は、霞んではいたが、不思議と子供のように澄んでいた。

「……じいさん、ここにいるよ。明日、新しい将棋の定石を教えてくれるって約束だろ。寝てちゃダメだよ」
 カイトの声は、涙を堪えて裏返っていた。

「定石など……自分で、探せ。人生の、指し手は……常に、貴様の手にある……」
 源三は途切れ途切れに言い、弱々しくカイトの手を握り返した。その微かな力に、カイトは胸を掻きむしられるような痛みを覚えた。

「嫌だ。一人じゃ、わからないよ。僕、まだ子供なんだよ……」
「いいか、カイト……。よく、聞け」

 源三は、最後の生命力を振り絞るように、カイトの目を真っ直ぐに見据えた。
「血がつながって、いようが、いまいが……。互いを想う、その心が、家族を作るんだ。……私は、貴様に、出会えて……ようやく、幸せな、校長になれた」

 源三の頬を、一筋の涙が伝った。それは後悔ではなく、確かな充足の証だった。
「カイト、お前は……もう、一人じゃない。この屋根の下の、みんなが……お前の、家族だ。……胸を張って、生きろ」

 その言葉を最期に、源三の手から力が抜けた。
 モニターの音が、一本の長く、冷たい音へと変わる。

「じいさん? ……じいさん! 嘘だろ、目を開けてよ!」

 カイトの叫びが、静寂を切り裂いた。
 駆け込んだ結衣が、源三の穏やかな死顔を見て、崩れるようにその場に膝をついた。部屋中に、源三が愛飲していたほうじ茶の香りが、なぜか微かに漂っている気がした。

 翌朝、源三の死は施設全体に知れ渡った。
 ラウンジは、しんとした悲しみに沈んでいた。入居者たちは、自分たちを力強く牽引してきた「佐藤先生」の不在に、肩を落とし、杖を握る手を震わせている。

「佐藤さん、あんなに元気だったのに……」
「私より、先に逝くなんて……」
 シズが力なく椅子に座り、枯れた目から涙を零していた。

 結衣は、そんな高齢者たちをどう慰めればいいのか、言葉が見つからなかった。彼女自身の心もまた、深い喪失感で削り取られていた。
 だが、その時だった。

「シズおばあちゃん、泣かないで」

 小さな、けれど温かい手が、シズの震える手を包み込んだ。ヒナだった。
 ヒナは、自分の小さな体をシズに預けるようにして、その背中をトントンと叩いた。かつて、シズが自分にしてくれたように。

「佐藤おじいちゃんは、虹の橋の上で、将棋の盤を作ってるんだよ。私たちが悲しんでると、怒鳴りに来ちゃうよ」

 カイトもまた、ラウンジの中央に立っていた。その瞳は赤く腫れていたが、源三に遺された「一人じゃない」という言葉が、彼の背筋を支えていた。カイトは、落ち込んでいた元大工の老人の元へ歩み寄り、その節くれだった手を力強く握った。

「おじいちゃん、一緒に竹とんぼ作ろう。じいさんが言ってたんだ。『教えることが、命を繋ぐことだ』って。僕に教えてよ。じいさんの代わりにさ」

 老人は顔を上げ、カイトの力強い瞳を見た。
「……カイト君。ああ、そうか……。わしらが教えなきゃならんな」

 ラウンジの空気が、少しずつ動き始めた。
 子供たちが、まるでお互いの欠けたパズルのピースを埋めるように、高齢者たちの隣に寄り添っていく。子供たちの若く、熱い掌の温度が、高齢者たちの冷え切った心に、再び小さな灯を灯していく。

「本当の、家族……」
 結衣は、その光景を見て確信した。
 ここにあるのは、血縁という制度ではない。悲しみを共有し、支え合いたいと願う、「選んだ家族」という新しい絆の形だった。

 カイトは、源三が愛用していた将棋盤を抱え、窓の外を仰いだ。
 そこには、源三の厳しい教えのように真っ直ぐな、一点の曇りもない青空が広がっていた。

「じいさん。見ててよ」
 カイトの呟きは、初夏の風に乗って、ひだまりの屋根を越えていった。
 悲しみは消えない。けれど、その悲しみを分かち合える誰かが隣にいる限り、人は何度でも根を張り直すことができる。

 ひだまりの家には、再び、少しずつ笑い声が戻り始めていた。
 それは、源三が遺した最も尊い「最後の授業」の答え合わせのようだった。

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