11 / 28
第10話「ひだまりの屋根は続く」
しおりを挟む
「ひだまりの家」の庭に、今年も紫陽花が鮮やかな大輪を咲かせていた。
雨上がりの昼下がり、アスファルトからは蒸せ返るような夏の予感が立ち上り、濡れた土の香りが鼻腔をくすぐる。
「佐々木さん、新しい入居者の方の荷物、こちらでよろしいですか?」
若手スタッフの声に、結衣はふっと顔を上げた。
「ええ、お願い。……ああ、もう『佐々木さん』はやめてって言ったじゃない。結衣さんでいいわよ」
結衣は笑って、少しだけ目尻に増えたシワを指でなぞった。あの新米時代から数年。今や彼女はこの施設の要、ベテラン指導員として、子供たちと高齢者たちの橋渡し役を担っている。
施設は以前よりも活気に満ちていた。幼老複合施設という形は地域に根付き、今では「近所の大きな家」として親しまれている。
そこへ、玄関の自動ドアが開く軽やかな音が響いた。
「こんにちは! 遅くなってすみません!」
聞き覚えのある、芯の通った快活な声。結衣が振り向くと、そこには白いTシャツを爽やかに着こなした、背の高い青年が立っていた。
「カイト君!」
カイトだった。施設を卒業し、今は地元の大学に通う彼は、週末になると必ずこうしてボランティアとして戻ってくる。かつての、大人を拒絶し、震える小動物のようだった面影はもうない。その瞳には、かつての源三が持っていたような、静かで確固たる意志が宿っていた。
「結衣さん、相変わらず忙しそうですね。今日は『寺子屋』の手伝いですよね?」
「助かるわ。ほら、あっちで新しい子が待ってるわよ。算数の割合が分からなくて、泣きそうになってる子がね」
カイトは苦笑いして、自分のこめかみを掻いた。
「割合か。……責任重大だな。じいさんに怒られないように教えないと」
カイトは迷わず、共有ラウンジへと向かった。
そこでは、新しく入居したばかりの偏屈な老人・村上と、心を閉ざした少年のタケルが、かつての源三とカイトのように、一触即発の空気で睨み合っていた。
「最近のガキは、礼儀というものを知らん。そんな汚い手で本を触るな!」
村上の鋭い声に、タケルは唇を噛み締め、今にも教科書を投げ捨てそうな顔をしている。
結衣がハラハラしながら見守る中、カイトがその間に割って入った。
カイトの体からは、太陽の匂いと、少しだけ大人びた制汗剤の香りがした。
「村上さん。その子は手が汚いんじゃなくて、さっきまで庭で、折れた花を植え直してたんです。……これと同じようにね」
カイトはポケットから、一組の古い将棋の駒を取り出した。源三から譲り受けた、あの日の一部。
「タケル、だろ? 難しそうな顔してるな。……俺も昔、ここで同じ顔をしてたんだ」
カイトはタケルの隣に座り、優しくノートを引き寄せた。
「いいか、割合ってのはな、陣取り合戦なんだ。この『ひだまりの家』にいる全員が味方だと思って考えてみろよ」
その教え方、その口調。結衣の耳には、カイトの声の背後に、懐かしい源三の低いダミ声が重なって聞こえた気がした。
村上は鼻を鳴らしたが、カイトがタケルの泥だらけの手を「頑張った証拠だ」と笑って握るのを見て、ふっと毒気が抜けたように肩の力を抜いた。
「……フン、若造が。教え方がなっておらん。私が見てやる」
村上が、不器用ながらも眼鏡をかけ直し、タケルのノートを覗き込む。
その光景を見て、結衣の胸に熱いものが込み上げた。
かつて源三が言っていた「命のバトン」。
それは、単なる思い出の継承ではない。誰かを想う痛みや、温かさを知った人間が、また次の誰かの絶望を救う。その連鎖こそが、この屋根の下で育まれている「新しい家族」の正体なのだ。
「ヒナちゃんも来たわよ!」
テラスの方から声がした。
看護学生になったヒナが、認知症が進んだ入居者たちの手を引き、ゆっくりと散歩を楽しんでいる。
「おばあちゃん、今日の空、佐藤おじいちゃんがいた頃と同じ色だね」
ヒナの優しい声に、高齢者たちが穏やかに微笑む。
夕暮れ時、オレンジ色の光が廊下を長く伸ばした。
結衣は、源三がいつも座っていたあの場所から、庭を眺めた。
カイトと村上、そしてタケルが、一つの将棋盤を囲んでいる。
笑い声と、時折混じる厳しい小言。
血は繋がっていない。けれど、ここには確かに「帰りたくなる場所」がある。
「佐藤さん。見てますか?」
結衣は心の中で呟いた。
「あなたの言った通り、誰も一人じゃありません。この屋根の下で、みんな誰かの『根っこ』になっています」
カイトが空を見上げた。
一番星が瞬き始める藍色の空に、かつて飛ばした竹とんぼの軌跡が見えるようだった。
彼が今、タケルの手を握るその温もりは、かつて源三が彼に与えたもの。
そしてタケルもまた、いつか誰かの手を握るだろう。
ひだまりの屋根は、今日も、そして明日も。
世代を超えて、傷ついた魂を優しく包み込み、新しい命を未来へと繋ぎ続けていく。
「さあ、みんな、ご飯にするわよ! 今日はオムライス、カイト君の分もあるからね!」
結衣の元気な声に、施設中が沸き立った。
ここにあるのは、終わりのない物語。
血縁を超えた「家族」の笑い声が、夜の帳を優しく押し返していた。
雨上がりの昼下がり、アスファルトからは蒸せ返るような夏の予感が立ち上り、濡れた土の香りが鼻腔をくすぐる。
「佐々木さん、新しい入居者の方の荷物、こちらでよろしいですか?」
若手スタッフの声に、結衣はふっと顔を上げた。
「ええ、お願い。……ああ、もう『佐々木さん』はやめてって言ったじゃない。結衣さんでいいわよ」
結衣は笑って、少しだけ目尻に増えたシワを指でなぞった。あの新米時代から数年。今や彼女はこの施設の要、ベテラン指導員として、子供たちと高齢者たちの橋渡し役を担っている。
施設は以前よりも活気に満ちていた。幼老複合施設という形は地域に根付き、今では「近所の大きな家」として親しまれている。
そこへ、玄関の自動ドアが開く軽やかな音が響いた。
「こんにちは! 遅くなってすみません!」
聞き覚えのある、芯の通った快活な声。結衣が振り向くと、そこには白いTシャツを爽やかに着こなした、背の高い青年が立っていた。
「カイト君!」
カイトだった。施設を卒業し、今は地元の大学に通う彼は、週末になると必ずこうしてボランティアとして戻ってくる。かつての、大人を拒絶し、震える小動物のようだった面影はもうない。その瞳には、かつての源三が持っていたような、静かで確固たる意志が宿っていた。
「結衣さん、相変わらず忙しそうですね。今日は『寺子屋』の手伝いですよね?」
「助かるわ。ほら、あっちで新しい子が待ってるわよ。算数の割合が分からなくて、泣きそうになってる子がね」
カイトは苦笑いして、自分のこめかみを掻いた。
「割合か。……責任重大だな。じいさんに怒られないように教えないと」
カイトは迷わず、共有ラウンジへと向かった。
そこでは、新しく入居したばかりの偏屈な老人・村上と、心を閉ざした少年のタケルが、かつての源三とカイトのように、一触即発の空気で睨み合っていた。
「最近のガキは、礼儀というものを知らん。そんな汚い手で本を触るな!」
村上の鋭い声に、タケルは唇を噛み締め、今にも教科書を投げ捨てそうな顔をしている。
結衣がハラハラしながら見守る中、カイトがその間に割って入った。
カイトの体からは、太陽の匂いと、少しだけ大人びた制汗剤の香りがした。
「村上さん。その子は手が汚いんじゃなくて、さっきまで庭で、折れた花を植え直してたんです。……これと同じようにね」
カイトはポケットから、一組の古い将棋の駒を取り出した。源三から譲り受けた、あの日の一部。
「タケル、だろ? 難しそうな顔してるな。……俺も昔、ここで同じ顔をしてたんだ」
カイトはタケルの隣に座り、優しくノートを引き寄せた。
「いいか、割合ってのはな、陣取り合戦なんだ。この『ひだまりの家』にいる全員が味方だと思って考えてみろよ」
その教え方、その口調。結衣の耳には、カイトの声の背後に、懐かしい源三の低いダミ声が重なって聞こえた気がした。
村上は鼻を鳴らしたが、カイトがタケルの泥だらけの手を「頑張った証拠だ」と笑って握るのを見て、ふっと毒気が抜けたように肩の力を抜いた。
「……フン、若造が。教え方がなっておらん。私が見てやる」
村上が、不器用ながらも眼鏡をかけ直し、タケルのノートを覗き込む。
その光景を見て、結衣の胸に熱いものが込み上げた。
かつて源三が言っていた「命のバトン」。
それは、単なる思い出の継承ではない。誰かを想う痛みや、温かさを知った人間が、また次の誰かの絶望を救う。その連鎖こそが、この屋根の下で育まれている「新しい家族」の正体なのだ。
「ヒナちゃんも来たわよ!」
テラスの方から声がした。
看護学生になったヒナが、認知症が進んだ入居者たちの手を引き、ゆっくりと散歩を楽しんでいる。
「おばあちゃん、今日の空、佐藤おじいちゃんがいた頃と同じ色だね」
ヒナの優しい声に、高齢者たちが穏やかに微笑む。
夕暮れ時、オレンジ色の光が廊下を長く伸ばした。
結衣は、源三がいつも座っていたあの場所から、庭を眺めた。
カイトと村上、そしてタケルが、一つの将棋盤を囲んでいる。
笑い声と、時折混じる厳しい小言。
血は繋がっていない。けれど、ここには確かに「帰りたくなる場所」がある。
「佐藤さん。見てますか?」
結衣は心の中で呟いた。
「あなたの言った通り、誰も一人じゃありません。この屋根の下で、みんな誰かの『根っこ』になっています」
カイトが空を見上げた。
一番星が瞬き始める藍色の空に、かつて飛ばした竹とんぼの軌跡が見えるようだった。
彼が今、タケルの手を握るその温もりは、かつて源三が彼に与えたもの。
そしてタケルもまた、いつか誰かの手を握るだろう。
ひだまりの屋根は、今日も、そして明日も。
世代を超えて、傷ついた魂を優しく包み込み、新しい命を未来へと繋ぎ続けていく。
「さあ、みんな、ご飯にするわよ! 今日はオムライス、カイト君の分もあるからね!」
結衣の元気な声に、施設中が沸き立った。
ここにあるのは、終わりのない物語。
血縁を超えた「家族」の笑い声が、夜の帳を優しく押し返していた。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる