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エピローグ
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夜の帳が下りる直前、空が深い群青色に染まる「マジックアワー」。
『ひだまりの家』の大きなテラスでは、一日の終わりを惜しむように、いくつもの小さな光が灯っていた。
結衣は、淹れたてのコーヒーから立ち上る香ばしくも少し苦い湯気を吸い込み、ふう、と息を吐いた。隣では、大学生になったカイトが、源三の形見であるあの将棋盤を磨いている。
「……まだ磨いてるの? それ、もう鏡みたいに光ってるじゃない」
「いいんだよ。こうしてるとさ、じいさんの説教が聞こえてくる気がするんだ。『角の磨きが甘いぞ、この素人が』ってさ」
カイトはそう言って、悪戯っぽく笑った。その横顔には、かつての刺々しさは微塵もない。布が木を擦るキュッ、キュッという規則正しい音が、夜の静寂に心地よく響く。
「ねえ、結衣さん。俺、大学を卒業したら、ここに戻ってきてもいいかな」
カイトが不意に手を止め、夜空を見上げた。
「えっ、ボランティアじゃなくて?」
「仕事として。……俺、じいさんみたいに、誰かの『壁』になりたいんだ。逃げるための壁じゃなくて、立ち上がるための砦に」
結衣の胸の奥が、熱いもので満たされた。カイトの指先についている、かすかな木の粉。それは、源三から受け取った「バトン」が、今もしっかりと彼の血肉となっている証だった。
「カイト君なら、きっと佐藤さんより厳しい職員になるわね」
「厳しいよ? 宿題忘れた子は、将棋で俺に勝つまで帰さないから」
二人が笑い合っていると、テラスの奥から「あはは!」という高い笑い声が聞こえてきた。
見れば、シズさんが、新しく入所してきたばかりの少女・ミウの手を引いて歩いている。
「ミウちゃん、見てごらん。あのお星様はね、きっと佐藤おじいちゃんが将棋の駒を並べてるのよ」
「えー、おじいちゃん、お空でもお仕事してるの?」
「そうよ。負けず嫌いだったから」
シズさんの言葉に、ミウが顔を輝かせる。
シズさんの認知症は少しずつ進んでいる。けれど、彼女がミウに向ける眼差しは、どんな記憶よりも鮮明な「愛」に満ちていた。
夜風が吹き抜け、庭のラベンダーの香りが鼻をくすぐる。
その風に混じって、誰かが奏でるハーモニカの音が遠くから聞こえてきた。かつて大工だった老人が、最近始めた趣味だ。
「……ねえ、カイト君」
結衣はコーヒーカップを置き、手すりに身を乗り出した。
「私、最近思うの。ここは『施設』っていう名前だけど、本当は、もっと大きな『生命(いのち)の広場』なんだなって。誰かが老いて、誰かが育って、その重なりが模様になっていく」
「模様か。……じいさんが言ってた『柾目(まさめ)』みたいだね」
カイトは将棋盤を大切そうに抱えた。
「真っ直ぐだけど、一本じゃない。たくさんの線が重なって、強い板になる。……俺たち、もう他人じゃないんだよね。血は繋がってなくても、同じ匂いがする家族だ」
カイトの言う通りだった。
ここには、特有の匂いがある。
お年寄りが使う湿布の匂い、子供たちが持ち込む泥と太陽の匂い、そして、みんなで囲む食卓の、温かな湯気の匂い。
それらが混ざり合い、熟成されて、『ひだまりの家』の香りが作られる。
「結衣ちゃん! ちょっと来てー! 村上さんがまた将棋盤の角に小指ぶつけて怒ってる!」
建物の中からヒナの呼ぶ声がした。
「もう、村上さんもおっちょこちょいなんだから……。カイト君、行くわよ! 家族の喧嘩を止めに」
「了解。俺がガツンと言ってやるよ。『じいさんの盤を傷つけるな』ってね」
二人は顔を見合わせ、夜のラウンジへと駆け出した。
ひだまりの屋根の下。
今日もまた、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが誰かの手を握る。
源三が愛した、厳しいけれど温かいこの場所。
カイトが選んだ、孤独を希望に変えるこの場所。
結衣が守り続ける、命が循環するこの場所。
血縁を超えた「新しい地域の家族」は、これからも増え続けるだろう。
夜空に輝く一番星が、かつて厳格だった老校長の厳しい眼差しのように、けれどどこまでも優しく、彼らの歩む道を照らし続けていた。
「さあ、明日も早いぞ! 全員、百点の笑顔で朝食に集まれ!」
カイトの威勢のいい声が、夜の廊下に心地よく響き渡った。
『ひだまりの家』の大きなテラスでは、一日の終わりを惜しむように、いくつもの小さな光が灯っていた。
結衣は、淹れたてのコーヒーから立ち上る香ばしくも少し苦い湯気を吸い込み、ふう、と息を吐いた。隣では、大学生になったカイトが、源三の形見であるあの将棋盤を磨いている。
「……まだ磨いてるの? それ、もう鏡みたいに光ってるじゃない」
「いいんだよ。こうしてるとさ、じいさんの説教が聞こえてくる気がするんだ。『角の磨きが甘いぞ、この素人が』ってさ」
カイトはそう言って、悪戯っぽく笑った。その横顔には、かつての刺々しさは微塵もない。布が木を擦るキュッ、キュッという規則正しい音が、夜の静寂に心地よく響く。
「ねえ、結衣さん。俺、大学を卒業したら、ここに戻ってきてもいいかな」
カイトが不意に手を止め、夜空を見上げた。
「えっ、ボランティアじゃなくて?」
「仕事として。……俺、じいさんみたいに、誰かの『壁』になりたいんだ。逃げるための壁じゃなくて、立ち上がるための砦に」
結衣の胸の奥が、熱いもので満たされた。カイトの指先についている、かすかな木の粉。それは、源三から受け取った「バトン」が、今もしっかりと彼の血肉となっている証だった。
「カイト君なら、きっと佐藤さんより厳しい職員になるわね」
「厳しいよ? 宿題忘れた子は、将棋で俺に勝つまで帰さないから」
二人が笑い合っていると、テラスの奥から「あはは!」という高い笑い声が聞こえてきた。
見れば、シズさんが、新しく入所してきたばかりの少女・ミウの手を引いて歩いている。
「ミウちゃん、見てごらん。あのお星様はね、きっと佐藤おじいちゃんが将棋の駒を並べてるのよ」
「えー、おじいちゃん、お空でもお仕事してるの?」
「そうよ。負けず嫌いだったから」
シズさんの言葉に、ミウが顔を輝かせる。
シズさんの認知症は少しずつ進んでいる。けれど、彼女がミウに向ける眼差しは、どんな記憶よりも鮮明な「愛」に満ちていた。
夜風が吹き抜け、庭のラベンダーの香りが鼻をくすぐる。
その風に混じって、誰かが奏でるハーモニカの音が遠くから聞こえてきた。かつて大工だった老人が、最近始めた趣味だ。
「……ねえ、カイト君」
結衣はコーヒーカップを置き、手すりに身を乗り出した。
「私、最近思うの。ここは『施設』っていう名前だけど、本当は、もっと大きな『生命(いのち)の広場』なんだなって。誰かが老いて、誰かが育って、その重なりが模様になっていく」
「模様か。……じいさんが言ってた『柾目(まさめ)』みたいだね」
カイトは将棋盤を大切そうに抱えた。
「真っ直ぐだけど、一本じゃない。たくさんの線が重なって、強い板になる。……俺たち、もう他人じゃないんだよね。血は繋がってなくても、同じ匂いがする家族だ」
カイトの言う通りだった。
ここには、特有の匂いがある。
お年寄りが使う湿布の匂い、子供たちが持ち込む泥と太陽の匂い、そして、みんなで囲む食卓の、温かな湯気の匂い。
それらが混ざり合い、熟成されて、『ひだまりの家』の香りが作られる。
「結衣ちゃん! ちょっと来てー! 村上さんがまた将棋盤の角に小指ぶつけて怒ってる!」
建物の中からヒナの呼ぶ声がした。
「もう、村上さんもおっちょこちょいなんだから……。カイト君、行くわよ! 家族の喧嘩を止めに」
「了解。俺がガツンと言ってやるよ。『じいさんの盤を傷つけるな』ってね」
二人は顔を見合わせ、夜のラウンジへと駆け出した。
ひだまりの屋根の下。
今日もまた、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが誰かの手を握る。
源三が愛した、厳しいけれど温かいこの場所。
カイトが選んだ、孤独を希望に変えるこの場所。
結衣が守り続ける、命が循環するこの場所。
血縁を超えた「新しい地域の家族」は、これからも増え続けるだろう。
夜空に輝く一番星が、かつて厳格だった老校長の厳しい眼差しのように、けれどどこまでも優しく、彼らの歩む道を照らし続けていた。
「さあ、明日も早いぞ! 全員、百点の笑顔で朝食に集まれ!」
カイトの威勢のいい声が、夜の廊下に心地よく響き渡った。
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