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第11話「空席」
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六月の湿った風が、テラスのカーテンをゆっくりと揺らしていた。
源三がいなくなって、半年。
夕方の光はまだ柔らかいのに、建物の奥にはどこか薄い影が残っている。誰かが抜けたあとの隙間のような、形を持たない空白。
カイトは自室の畳に膝をつき、将棋盤を前にしていた。
蓋を開けると、乾いた木の匂いがふわりと立ち上る。指で撫でると、柾目のまっすぐな線が掌に吸い付くようだ。
「……持っていくか」
呟いて、駒箱に手を伸ばす。だが、そのまま止まった。
窓の外から、子どもたちの笑い声が跳ねる。廊下では車椅子のタイヤが床を転がる低い音。味噌汁の湯気の匂いが、どこか遠くから漂ってくる。
ここに置いていけば、あの匂いと一緒に、源三も残る気がした。
「カイト君?」
結衣が顔をのぞかせる。コーヒーの苦い香りが、彼女と一緒に部屋へ入ってくる。
「持ってくの?」
「……いや、まだ決めてない」
そのとき、玄関の方で重い革靴の音が響いた。
コツ、コツ、と規則正しく、ためらいのない足取り。
「今日からお世話になります、村上だ」
低く乾いた声が、ホールに落ちる。
カイトは将棋盤の蓋を閉じた。
ホールに出ると、黒いスーツをきちんと着込んだ老人が立っていた。杖は持っていない。背筋はまっすぐで、目だけが鋭く光っている。
「村上様、こちらが——」
「様はいらん。私は客ではない。利用者だ」
結衣の言葉を遮る声は、冷えた金属のようだった。
子どもたちが廊下の角から覗く。
美空が小声で言う。「怖いね」
村上は視線を向けた。
「ここは高齢者施設と聞いたが……ずいぶん騒がしい」
「子どもも一緒に暮らす複合施設ですから」
結衣が柔らかく答える。
「複合、か。効率が悪いな」
空気がわずかに張りつめた。
カイトは黙ってその横顔を見た。皺は深いが、揺らぎがない。決算書を見る目だ、と直感した。
「交流行事は、毎日あるのか」
「ええ。食事も一部合同ですし、週に一度は——」
「無駄だな」
ぴたり、と会話が止まる。
テラスから吹き込んだ風が、掲示板の紙をぱたぱたと鳴らす。
「感情論で運営してはならん。事故が起きれば責任は誰が取る。人手も金も有限だ。合理化すべきだ」
言葉は整然としている。正しい形をしている。
だが、どこか温度がない。
結衣は唇を引き結ぶ。
「ここは……効率だけでは測れない場所なんです」
「測れないものに価値はない」
村上は即答した。
カイトの胸の奥で、何かが軋んだ。
「じいさんは、そんなこと言わなかった」
気づけば口に出ていた。
「ほう?」
村上が視線を向ける。冷たい灰色の瞳。
「ここは、役に立てる場所だって言ってた。子どもも、じいちゃんも、みんな」
「感傷だ」
「違う」
声が少し震える。
源三の咳払いが耳の奥で鳴った気がした。
「俺、ここで救われた。あんたみたいな数字の話じゃなくて、ただ……誰かが横に立ってくれたから」
「横に立つ? それで何が解決する」
「一人じゃなくなる」
短い沈黙。
どこかで食器が重なる音がした。夕飯の準備だ。醤油の香りが、ほのかに漂う。
村上は鼻で息を吐いた。
「依存を助長するだけだ。自立とは距離を取ることだ」
「違う!」
カイトの声が、ホールに響く。
子どもたちが息を呑む。
「自立ってのは、支えてくれた人がいるって知ってることだよ」
心臓がうるさい。手のひらが汗ばむ。
「壁があるから、立てるんだ」
村上は黙ったまま、将棋盤の置かれた棚を見る。
「その板は?」
「……形見だ」
「死んだ者の道具に縛られるのか」
その一言に、胸の奥が鋭く刺さる。
「縛られてない。受け取ってるんだ」
カイトは将棋盤を抱えた。木の冷たさが腕に伝わる。
「線がいっぱい重なってるだろ。一本じゃ弱いけど、重なれば強い。ここも同じだ」
村上は、ゆっくりと盤に近づいた。
指先で表面をなぞる。
乾いた木肌が、かすかに軋む。
「……柾目か」
「知ってるのかよ」
「経営者は木も見る」
わずかに、ほんのわずかに、目の奥が揺れた気がした。
だがすぐに表情は戻る。
「理念を掲げるのは勝手だ。だが、私は無駄は嫌いだ」
「無駄じゃない」
結衣が静かに言う。
「ここで生まれるものは、決算書に載りません。でも、消えもしません」
夕陽が差し込み、床に長い影を落とす。
源三がいつも座っていたベンチの影。
そこだけ、ぽっかりと空いている。
村上はそれを見つめ、何も言わなかった。
外で、子どもが転び、泣き声が上がる。
反射的にカイトが走る。
その背中を、村上はじっと見ている。
泣き声はすぐに笑い声へ変わった。
カイトが子どもを抱き上げる姿が、夕陽の中で赤く染まる。
村上の指が、将棋盤の角をそっと押さえる。
「……感情で施設は運営できん」
小さく、だが先ほどより低い声で呟いた。
「だが——」
言葉はそこで途切れる。
夜の気配が、ゆっくりと降りてくる。
源三のいない最初の夏が、静かに始まっていた。
源三がいなくなって、半年。
夕方の光はまだ柔らかいのに、建物の奥にはどこか薄い影が残っている。誰かが抜けたあとの隙間のような、形を持たない空白。
カイトは自室の畳に膝をつき、将棋盤を前にしていた。
蓋を開けると、乾いた木の匂いがふわりと立ち上る。指で撫でると、柾目のまっすぐな線が掌に吸い付くようだ。
「……持っていくか」
呟いて、駒箱に手を伸ばす。だが、そのまま止まった。
窓の外から、子どもたちの笑い声が跳ねる。廊下では車椅子のタイヤが床を転がる低い音。味噌汁の湯気の匂いが、どこか遠くから漂ってくる。
ここに置いていけば、あの匂いと一緒に、源三も残る気がした。
「カイト君?」
結衣が顔をのぞかせる。コーヒーの苦い香りが、彼女と一緒に部屋へ入ってくる。
「持ってくの?」
「……いや、まだ決めてない」
そのとき、玄関の方で重い革靴の音が響いた。
コツ、コツ、と規則正しく、ためらいのない足取り。
「今日からお世話になります、村上だ」
低く乾いた声が、ホールに落ちる。
カイトは将棋盤の蓋を閉じた。
ホールに出ると、黒いスーツをきちんと着込んだ老人が立っていた。杖は持っていない。背筋はまっすぐで、目だけが鋭く光っている。
「村上様、こちらが——」
「様はいらん。私は客ではない。利用者だ」
結衣の言葉を遮る声は、冷えた金属のようだった。
子どもたちが廊下の角から覗く。
美空が小声で言う。「怖いね」
村上は視線を向けた。
「ここは高齢者施設と聞いたが……ずいぶん騒がしい」
「子どもも一緒に暮らす複合施設ですから」
結衣が柔らかく答える。
「複合、か。効率が悪いな」
空気がわずかに張りつめた。
カイトは黙ってその横顔を見た。皺は深いが、揺らぎがない。決算書を見る目だ、と直感した。
「交流行事は、毎日あるのか」
「ええ。食事も一部合同ですし、週に一度は——」
「無駄だな」
ぴたり、と会話が止まる。
テラスから吹き込んだ風が、掲示板の紙をぱたぱたと鳴らす。
「感情論で運営してはならん。事故が起きれば責任は誰が取る。人手も金も有限だ。合理化すべきだ」
言葉は整然としている。正しい形をしている。
だが、どこか温度がない。
結衣は唇を引き結ぶ。
「ここは……効率だけでは測れない場所なんです」
「測れないものに価値はない」
村上は即答した。
カイトの胸の奥で、何かが軋んだ。
「じいさんは、そんなこと言わなかった」
気づけば口に出ていた。
「ほう?」
村上が視線を向ける。冷たい灰色の瞳。
「ここは、役に立てる場所だって言ってた。子どもも、じいちゃんも、みんな」
「感傷だ」
「違う」
声が少し震える。
源三の咳払いが耳の奥で鳴った気がした。
「俺、ここで救われた。あんたみたいな数字の話じゃなくて、ただ……誰かが横に立ってくれたから」
「横に立つ? それで何が解決する」
「一人じゃなくなる」
短い沈黙。
どこかで食器が重なる音がした。夕飯の準備だ。醤油の香りが、ほのかに漂う。
村上は鼻で息を吐いた。
「依存を助長するだけだ。自立とは距離を取ることだ」
「違う!」
カイトの声が、ホールに響く。
子どもたちが息を呑む。
「自立ってのは、支えてくれた人がいるって知ってることだよ」
心臓がうるさい。手のひらが汗ばむ。
「壁があるから、立てるんだ」
村上は黙ったまま、将棋盤の置かれた棚を見る。
「その板は?」
「……形見だ」
「死んだ者の道具に縛られるのか」
その一言に、胸の奥が鋭く刺さる。
「縛られてない。受け取ってるんだ」
カイトは将棋盤を抱えた。木の冷たさが腕に伝わる。
「線がいっぱい重なってるだろ。一本じゃ弱いけど、重なれば強い。ここも同じだ」
村上は、ゆっくりと盤に近づいた。
指先で表面をなぞる。
乾いた木肌が、かすかに軋む。
「……柾目か」
「知ってるのかよ」
「経営者は木も見る」
わずかに、ほんのわずかに、目の奥が揺れた気がした。
だがすぐに表情は戻る。
「理念を掲げるのは勝手だ。だが、私は無駄は嫌いだ」
「無駄じゃない」
結衣が静かに言う。
「ここで生まれるものは、決算書に載りません。でも、消えもしません」
夕陽が差し込み、床に長い影を落とす。
源三がいつも座っていたベンチの影。
そこだけ、ぽっかりと空いている。
村上はそれを見つめ、何も言わなかった。
外で、子どもが転び、泣き声が上がる。
反射的にカイトが走る。
その背中を、村上はじっと見ている。
泣き声はすぐに笑い声へ変わった。
カイトが子どもを抱き上げる姿が、夕陽の中で赤く染まる。
村上の指が、将棋盤の角をそっと押さえる。
「……感情で施設は運営できん」
小さく、だが先ほどより低い声で呟いた。
「だが——」
言葉はそこで途切れる。
夜の気配が、ゆっくりと降りてくる。
源三のいない最初の夏が、静かに始まっていた。
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