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第12話「効率と孤独」
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第12話「効率と孤独」
朝の光は同じ色をしているのに、空気の重さだけが違っていた。
テラスのガラス戸を開けても、いつもの笑い声が跳ねてこない。代わりに、蛍光灯のかすかな唸りと、事務室から聞こえるキーボードの乾いた打鍵音が耳に残る。
壁の掲示板には、新しい紙が貼られていた。
《交流プログラム時間短縮のお知らせ》
黒い太字が、妙に整然としている。
結衣はその紙を指で押さえ、角がめくれないように伸ばした。インクの匂いが、まだわずかに残っている。
「安全確保のため……ね」
小さく呟く。
そのとき、背後から低い声がした。
「事故は未然に防ぐものだ。起きてからでは遅い」
振り向くと、村上が立っている。今日もきっちりとボタンを留めたシャツ。皺ひとつない。
「交流時間を三割削減。職員のシフト再編。これで残業は減る」
「……笑い声も減りました」
結衣は言い返した。
「笑い声は指標にならん」
「でも、生きている証です」
村上は眉を動かさない。
「証明できるのか」
その問いは、静かで、冷たい。
廊下の向こうで、子どもたちが整列して移動している。まるで学校の避難訓練のように、規則正しい足音が並ぶ。
テラスのベンチは空いている。
風だけが、ラベンダーの匂いを運ぶ。
昼食の時間。
以前は子どもと高齢者が入り混じっていた食堂が、今日は左右で分かれている。
椅子を引く音が、やけに大きく響く。
「いただきます」
声は揃っているのに、温度が違う。
美空はスプーンを握ったまま、皿のハンバーグを見つめている。湯気が立ち上るが、手は動かない。
「美空ちゃん、食べないの?」
結衣がしゃがみ込む。
返事はない。
その瞳は、どこか遠くを見ている。
まるで、誰かを探しているように。
隣の席に座るはずだった村上の姿がない。
彼は奥の席で、新聞を広げている。
紙をめくる音が、さらりと空間を切る。
そのとき、玄関のドアが開いた。
外気が一気に流れ込む。湿った土の匂いと、わずかな排気ガスの匂い。
「ただいま」
カイトだった。
肩にバッグをかけ、汗ばんだ額を拭う。
その目が、食堂を見渡す。
そして、止まる。
「……なんか、変わった?」
結衣が立ち上がる。
「ちょっとだけね」
「ちょっと?」
カイトは眉をひそめる。
子どもと高齢者の間に、目に見えない線が引かれている。
それが、空気の温度を分けている。
「ここ、こんなに静かだったっけ」
ぽつりと漏れる。
その声は、意外と大きく響いた。
村上が新聞から目を上げる。
「大学生か」
「はい」
「外を知るのは良いことだ。内輪で馴れ合うよりな」
カイトの胸が、わずかにざらつく。
「馴れ合いじゃない」
「では何だ」
「……家族だよ」
村上は鼻で息を吐く。
「家族は血縁だ。施設は契約だ」
言葉が、石のように落ちる。
美空がスプーンを落とした。
金属が床に当たる鋭い音。
全員が振り向く。
彼女は顔を上げない。
ただ、肩が小さく震えている。
カイトはすぐに立ち上がり、スプーンを拾う。
「ほら、温かいうちに食べろよ」
ハンバーグを小さく切り分ける。肉汁の甘い匂いが立つ。
だが、美空は首を振る。
「……いい」
かすれた声。
「前は、隣でおばあちゃんが食べさせてくれた」
その一言で、食堂の空気が凍る。
結衣の喉が詰まる。
村上は黙ったまま、視線を落とす。
カイトはゆっくりと美空の横に座った。
「じゃあ、俺がやる」
「……ちがう」
美空の目が潤む。
「ちがうの」
言葉にならない感情が、頬を伝う。
カイトの胸に、鈍い痛みが走る。
テラスの外で、風鈴が鳴る。
からん、と乾いた音。
以前なら、誰かが「夏だね」と笑っていたはずだ。
「効率は上がっている」
村上が静かに言う。
「転倒リスクは減少、職員の残業も改善。数字は嘘をつかん」
「でも、人は嘘つきになるよ」
カイトは顔を上げる。
「本当は寂しいのに、平気なふりする」
その視線が、まっすぐ村上を射る。
「……感情に振り回されるな」
「振り回されてるのは、あんたじゃないのか」
場が凍りつく。
結衣が小さく息を呑む。
村上の目が、わずかに揺れた。
「私は合理的だ」
「じゃあ聞くけど」
カイトの声は低い。
「美空がまた無言になったのも、合理的か?」
沈黙。
外で、救急車のサイレンが遠く鳴る。
赤い光が、窓に一瞬だけ映る。
村上の手が、新聞の端を握りしめる。
紙がかすかに軋む。
「……感情は、コストがかかる」
「孤独も、コストだ」
カイトは立ち上がる。
「数字に出ないだけだ」
美空の頭をそっと撫でる。
髪から、シャンプーの甘い匂いがする。
「なあ、村上さん」
呼びかける声は、怒りよりも強い。
「ここ、静かすぎるんだよ」
その言葉は、テラスまで届いた。
空の色が、ゆっくりと夕暮れに変わる。
ベンチは今日も空席のまま。
だが、その空席が、以前より広く見えた。
村上は立ち上がる。
ゆっくりと、テラスへ向かう。
ラベンダーの香りが濃い。
風が頬を撫でる。
遠くで、子どもが笑った。
ほんの一瞬。
その笑い声に、村上の肩がわずかに震えた。
だが彼は何も言わない。
ただ、空を見上げる。
静かすぎる空の下で。
朝の光は同じ色をしているのに、空気の重さだけが違っていた。
テラスのガラス戸を開けても、いつもの笑い声が跳ねてこない。代わりに、蛍光灯のかすかな唸りと、事務室から聞こえるキーボードの乾いた打鍵音が耳に残る。
壁の掲示板には、新しい紙が貼られていた。
《交流プログラム時間短縮のお知らせ》
黒い太字が、妙に整然としている。
結衣はその紙を指で押さえ、角がめくれないように伸ばした。インクの匂いが、まだわずかに残っている。
「安全確保のため……ね」
小さく呟く。
そのとき、背後から低い声がした。
「事故は未然に防ぐものだ。起きてからでは遅い」
振り向くと、村上が立っている。今日もきっちりとボタンを留めたシャツ。皺ひとつない。
「交流時間を三割削減。職員のシフト再編。これで残業は減る」
「……笑い声も減りました」
結衣は言い返した。
「笑い声は指標にならん」
「でも、生きている証です」
村上は眉を動かさない。
「証明できるのか」
その問いは、静かで、冷たい。
廊下の向こうで、子どもたちが整列して移動している。まるで学校の避難訓練のように、規則正しい足音が並ぶ。
テラスのベンチは空いている。
風だけが、ラベンダーの匂いを運ぶ。
昼食の時間。
以前は子どもと高齢者が入り混じっていた食堂が、今日は左右で分かれている。
椅子を引く音が、やけに大きく響く。
「いただきます」
声は揃っているのに、温度が違う。
美空はスプーンを握ったまま、皿のハンバーグを見つめている。湯気が立ち上るが、手は動かない。
「美空ちゃん、食べないの?」
結衣がしゃがみ込む。
返事はない。
その瞳は、どこか遠くを見ている。
まるで、誰かを探しているように。
隣の席に座るはずだった村上の姿がない。
彼は奥の席で、新聞を広げている。
紙をめくる音が、さらりと空間を切る。
そのとき、玄関のドアが開いた。
外気が一気に流れ込む。湿った土の匂いと、わずかな排気ガスの匂い。
「ただいま」
カイトだった。
肩にバッグをかけ、汗ばんだ額を拭う。
その目が、食堂を見渡す。
そして、止まる。
「……なんか、変わった?」
結衣が立ち上がる。
「ちょっとだけね」
「ちょっと?」
カイトは眉をひそめる。
子どもと高齢者の間に、目に見えない線が引かれている。
それが、空気の温度を分けている。
「ここ、こんなに静かだったっけ」
ぽつりと漏れる。
その声は、意外と大きく響いた。
村上が新聞から目を上げる。
「大学生か」
「はい」
「外を知るのは良いことだ。内輪で馴れ合うよりな」
カイトの胸が、わずかにざらつく。
「馴れ合いじゃない」
「では何だ」
「……家族だよ」
村上は鼻で息を吐く。
「家族は血縁だ。施設は契約だ」
言葉が、石のように落ちる。
美空がスプーンを落とした。
金属が床に当たる鋭い音。
全員が振り向く。
彼女は顔を上げない。
ただ、肩が小さく震えている。
カイトはすぐに立ち上がり、スプーンを拾う。
「ほら、温かいうちに食べろよ」
ハンバーグを小さく切り分ける。肉汁の甘い匂いが立つ。
だが、美空は首を振る。
「……いい」
かすれた声。
「前は、隣でおばあちゃんが食べさせてくれた」
その一言で、食堂の空気が凍る。
結衣の喉が詰まる。
村上は黙ったまま、視線を落とす。
カイトはゆっくりと美空の横に座った。
「じゃあ、俺がやる」
「……ちがう」
美空の目が潤む。
「ちがうの」
言葉にならない感情が、頬を伝う。
カイトの胸に、鈍い痛みが走る。
テラスの外で、風鈴が鳴る。
からん、と乾いた音。
以前なら、誰かが「夏だね」と笑っていたはずだ。
「効率は上がっている」
村上が静かに言う。
「転倒リスクは減少、職員の残業も改善。数字は嘘をつかん」
「でも、人は嘘つきになるよ」
カイトは顔を上げる。
「本当は寂しいのに、平気なふりする」
その視線が、まっすぐ村上を射る。
「……感情に振り回されるな」
「振り回されてるのは、あんたじゃないのか」
場が凍りつく。
結衣が小さく息を呑む。
村上の目が、わずかに揺れた。
「私は合理的だ」
「じゃあ聞くけど」
カイトの声は低い。
「美空がまた無言になったのも、合理的か?」
沈黙。
外で、救急車のサイレンが遠く鳴る。
赤い光が、窓に一瞬だけ映る。
村上の手が、新聞の端を握りしめる。
紙がかすかに軋む。
「……感情は、コストがかかる」
「孤独も、コストだ」
カイトは立ち上がる。
「数字に出ないだけだ」
美空の頭をそっと撫でる。
髪から、シャンプーの甘い匂いがする。
「なあ、村上さん」
呼びかける声は、怒りよりも強い。
「ここ、静かすぎるんだよ」
その言葉は、テラスまで届いた。
空の色が、ゆっくりと夕暮れに変わる。
ベンチは今日も空席のまま。
だが、その空席が、以前より広く見えた。
村上は立ち上がる。
ゆっくりと、テラスへ向かう。
ラベンダーの香りが濃い。
風が頬を撫でる。
遠くで、子どもが笑った。
ほんの一瞬。
その笑い声に、村上の肩がわずかに震えた。
だが彼は何も言わない。
ただ、空を見上げる。
静かすぎる空の下で。
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