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第13話「壊れた柾目」
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第13話「壊れた柾目」
午後の光は、床に長い縞を落としていた。磨き上げられた廊下は静かで、消毒液の匂いが薄く鼻を刺す。遠くでテレビの笑い声が乾いて弾け、すぐに消えた。
テラスへ続くガラス戸が、かすかに軋む。
村上は一人で歩いていた。杖は持たない。背筋はまっすぐ、歩幅は一定。規則正しい靴音が、板張りの床を叩く。
その足が、ほんの一瞬、止まった。
ラベンダーの鉢が、風に揺れる。甘い匂いが濃い。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
――ぐらり、と。
白いシャツの袖が空を切る。身体が傾き、膝が床にぶつかる重たい衝撃音。息を詰めたようなうめき声。
「村上さん!」
美空の声だった。
小さな足音が駆け寄る。スリッパが滑る。彼女は咄嗟に両手を伸ばす。
「だいじょうぶ?」
細い腕が、村上の肩に触れた。
その瞬間、美空の足が床の縞模様を踏み外す。体重が前に傾く。空気を裂く短い悲鳴。
どさり、と軽い衝撃。
小さな膝が床に打ちつけられ、乾いた音が廊下に広がった。
時間が、止まる。
ラベンダーの鉢が倒れ、土が散る。湿った土の匂いが一気に立ち上る。
村上の息が荒い。
「……触るな」
低い声。
美空は床に手をついたまま、目を丸くする。
「だから、子どもは危険なんだ!」
怒鳴り声が廊下を震わせる。
空気が張りつめる。
職員室のドアが開く音。結衣の足音が近づく。
「村上さん、落ち着いて――」
「見ろ!」
村上の指が震えながら美空を指す。
「こういうことだ! 感情で動くから事故が増える! 守るべきは安全だ!」
美空の目に涙が溜まる。消毒液と土の匂いが混ざり、胸がむかつく。
「ごめんなさい……」
かすれた声。
そのとき、玄関のほうから走る足音がした。
「何があった?」
カイトだ。息を切らし、状況を一瞬で飲み込む。
床に倒れた鉢、土まみれの廊下、膝を抱えた美空、顔を紅潮させた村上。
「大丈夫か、美空」
しゃがみ込み、彼女の膝に触れる。じんわりと赤く腫れている。触れた指先に体温が伝わる。
「いたい……」
涙が一筋、落ちる。
「ほら見ろ!」
村上の声はさらに鋭くなる。
「子どもが介入するから被害が広がる! 交流など廃止すべきだ!」
カイトの胸の奥が、ぎり、と軋む。
「違うだろ」
低く、押し殺した声。
「何が違う」
「助けようとしたんだよ」
「結果がすべてだ!」
村上は言い切る。目は硬い。
「善意で怪我をするなら、最初から関わらせるな!」
廊下の空気が冷える。
カイトは立ち上がる。土の匂いが靴底から立ちのぼる。
「じゃあ一人で生きられるのかよ」
村上の眉がぴくりと動く。
「何だと」
「転んだの、誰だよ」
言葉が鋭く飛ぶ。
「自分だろ」
村上の呼吸が荒くなる。
「私は――」
「助けられるのが嫌なんだろ」
静かな断言。
「……違う」
「怖いんだろ」
カイトの声が震える。怒りと、別の感情が混ざる。
「また守れなかったって思うのが」
廊下の奥で、誰かが息を呑む。
村上の拳が握られる。白くなる指先。
「軽々しく言うな!」
怒鳴り声が天井に跳ね返る。
「お前に何がわかる!」
「わかるよ」
即答。
「俺も守られなかった側だから」
空気が変わる。
消毒液の匂いが、急に強く感じられる。
「でもさ」
カイトは美空の肩に手を置く。
「それでも、助けようとするのが家族だろ」
「家族ではない!」
村上の声が裂ける。
「ここは施設だ! 契約だ!」
「だったら」
カイトは一歩、近づく。
「契約で転んだあんたを、誰が助ける?」
沈黙。
外で風が吹く。ガラス戸が震える。ラベンダーの香りが流れ込む。
「数字は嘘をつかないって言ったよな」
カイトの声は低い。
「じゃあ教えてくれよ」
「……何を」
「孤独の数字」
村上の喉が動く。
「美空が、また無言になる確率は?」
言葉が、突き刺さる。
村上の視線が揺れる。
その足元で、土が靴にこびりついている。
木目の床に、縦に走る線が見える。
まっすぐだったはずの柾目に、土の跡が乱れている。
村上はそれを見つめる。
整っていたはずの線が、崩れている。
「……私は」
声がかすれる。
「守れなかった」
小さな呟き。
誰に向けた言葉かは、わからない。
美空が顔を上げる。
「わたし、こわくなかったよ」
震える声。
「おじいちゃん、ひとりでいたから」
その一言が、廊下に落ちる。
村上の肩が、ゆっくりと落ちる。
呼吸が、乱れている。
結衣がそっと美空を抱き上げる。温かい体温が腕に伝わる。
「手当てしようね」
柔らかい声。
カイトは視線を外さない。
「俺たちは危険かもしれない」
静かに言う。
「でもさ、関わらないほうが安全って世界は」
一拍。
「もう、十分だろ」
遠くでチャイムが鳴る。
夕方を告げる音。
村上はゆっくりと立ち上がる。足がわずかに震えている。
柾目の上に、土の跡がまだ残っている。
彼はその線を、指でなぞる。
まっすぐだったものが、少しだけ歪んでいる。
それを見つめながら、何も言わない。
ラベンダーの香りが、強くなる。
風が吹く。
壊れた柾目の上で、三人の影が重なる。
静けさは戻らない。
代わりに、熱を帯びた空気がそこに残っていた。
午後の光は、床に長い縞を落としていた。磨き上げられた廊下は静かで、消毒液の匂いが薄く鼻を刺す。遠くでテレビの笑い声が乾いて弾け、すぐに消えた。
テラスへ続くガラス戸が、かすかに軋む。
村上は一人で歩いていた。杖は持たない。背筋はまっすぐ、歩幅は一定。規則正しい靴音が、板張りの床を叩く。
その足が、ほんの一瞬、止まった。
ラベンダーの鉢が、風に揺れる。甘い匂いが濃い。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
――ぐらり、と。
白いシャツの袖が空を切る。身体が傾き、膝が床にぶつかる重たい衝撃音。息を詰めたようなうめき声。
「村上さん!」
美空の声だった。
小さな足音が駆け寄る。スリッパが滑る。彼女は咄嗟に両手を伸ばす。
「だいじょうぶ?」
細い腕が、村上の肩に触れた。
その瞬間、美空の足が床の縞模様を踏み外す。体重が前に傾く。空気を裂く短い悲鳴。
どさり、と軽い衝撃。
小さな膝が床に打ちつけられ、乾いた音が廊下に広がった。
時間が、止まる。
ラベンダーの鉢が倒れ、土が散る。湿った土の匂いが一気に立ち上る。
村上の息が荒い。
「……触るな」
低い声。
美空は床に手をついたまま、目を丸くする。
「だから、子どもは危険なんだ!」
怒鳴り声が廊下を震わせる。
空気が張りつめる。
職員室のドアが開く音。結衣の足音が近づく。
「村上さん、落ち着いて――」
「見ろ!」
村上の指が震えながら美空を指す。
「こういうことだ! 感情で動くから事故が増える! 守るべきは安全だ!」
美空の目に涙が溜まる。消毒液と土の匂いが混ざり、胸がむかつく。
「ごめんなさい……」
かすれた声。
そのとき、玄関のほうから走る足音がした。
「何があった?」
カイトだ。息を切らし、状況を一瞬で飲み込む。
床に倒れた鉢、土まみれの廊下、膝を抱えた美空、顔を紅潮させた村上。
「大丈夫か、美空」
しゃがみ込み、彼女の膝に触れる。じんわりと赤く腫れている。触れた指先に体温が伝わる。
「いたい……」
涙が一筋、落ちる。
「ほら見ろ!」
村上の声はさらに鋭くなる。
「子どもが介入するから被害が広がる! 交流など廃止すべきだ!」
カイトの胸の奥が、ぎり、と軋む。
「違うだろ」
低く、押し殺した声。
「何が違う」
「助けようとしたんだよ」
「結果がすべてだ!」
村上は言い切る。目は硬い。
「善意で怪我をするなら、最初から関わらせるな!」
廊下の空気が冷える。
カイトは立ち上がる。土の匂いが靴底から立ちのぼる。
「じゃあ一人で生きられるのかよ」
村上の眉がぴくりと動く。
「何だと」
「転んだの、誰だよ」
言葉が鋭く飛ぶ。
「自分だろ」
村上の呼吸が荒くなる。
「私は――」
「助けられるのが嫌なんだろ」
静かな断言。
「……違う」
「怖いんだろ」
カイトの声が震える。怒りと、別の感情が混ざる。
「また守れなかったって思うのが」
廊下の奥で、誰かが息を呑む。
村上の拳が握られる。白くなる指先。
「軽々しく言うな!」
怒鳴り声が天井に跳ね返る。
「お前に何がわかる!」
「わかるよ」
即答。
「俺も守られなかった側だから」
空気が変わる。
消毒液の匂いが、急に強く感じられる。
「でもさ」
カイトは美空の肩に手を置く。
「それでも、助けようとするのが家族だろ」
「家族ではない!」
村上の声が裂ける。
「ここは施設だ! 契約だ!」
「だったら」
カイトは一歩、近づく。
「契約で転んだあんたを、誰が助ける?」
沈黙。
外で風が吹く。ガラス戸が震える。ラベンダーの香りが流れ込む。
「数字は嘘をつかないって言ったよな」
カイトの声は低い。
「じゃあ教えてくれよ」
「……何を」
「孤独の数字」
村上の喉が動く。
「美空が、また無言になる確率は?」
言葉が、突き刺さる。
村上の視線が揺れる。
その足元で、土が靴にこびりついている。
木目の床に、縦に走る線が見える。
まっすぐだったはずの柾目に、土の跡が乱れている。
村上はそれを見つめる。
整っていたはずの線が、崩れている。
「……私は」
声がかすれる。
「守れなかった」
小さな呟き。
誰に向けた言葉かは、わからない。
美空が顔を上げる。
「わたし、こわくなかったよ」
震える声。
「おじいちゃん、ひとりでいたから」
その一言が、廊下に落ちる。
村上の肩が、ゆっくりと落ちる。
呼吸が、乱れている。
結衣がそっと美空を抱き上げる。温かい体温が腕に伝わる。
「手当てしようね」
柔らかい声。
カイトは視線を外さない。
「俺たちは危険かもしれない」
静かに言う。
「でもさ、関わらないほうが安全って世界は」
一拍。
「もう、十分だろ」
遠くでチャイムが鳴る。
夕方を告げる音。
村上はゆっくりと立ち上がる。足がわずかに震えている。
柾目の上に、土の跡がまだ残っている。
彼はその線を、指でなぞる。
まっすぐだったものが、少しだけ歪んでいる。
それを見つめながら、何も言わない。
ラベンダーの香りが、強くなる。
風が吹く。
壊れた柾目の上で、三人の影が重なる。
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