『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第14話「壁の役目」

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第14話「壁の役目」

 夜の施設は、昼とは違う匂いがする。

 消灯後の廊下には、ほのかな洗剤の匂いと、温め直した夕食の残り香が混ざっている。窓の外では虫が鳴き、一定のリズムが静寂を縫う。

 村上は談話室の隅に座っていた。

 天井の間接照明が、額の皺を深く落とす。膝の上には閉じたままの手帳。指先は白くなるほど組まれている。

 昼間の転倒で打った膝は、じんじんと鈍く痛む。湿布の冷たさが、布越しに皮膚へ染み込んでいる。

「眠れませんか」

 結衣の声が、柔らかく差し込む。

 村上は顔を上げない。

「年寄りは眠りが浅い」

 短い返答。

 結衣は向かいに腰を下ろす。ソファの布がわずかに沈む。

「美空ちゃん、さっきまで泣いていました」

 沈黙。

「でも、『こわくなかった』って言ってました」

 村上の指が、わずかに動く。

「……無謀だ」

「優しさです」

 虫の声が強くなる。

 結衣は続ける。

「村上さんは、何をそんなに守ろうとしているんですか」

 問いは、責める響きではない。ただ、静かだ。

 村上の喉が上下する。

「守れなかった」

 かすれた声。

 結衣は黙る。

「高速道路だった」

 唐突に始まる。

「雨の日だ。視界が悪かった」

 遠くを見る目。

「助手席で、息子が眠っていた」

 空気が重くなる。

「ブレーキが遅れた。たった、それだけだ」

 拳が震える。

「私は経営者だった。判断を誤らない男だと、自負していた」

 苦い笑い。

「だが、一瞬で終わった」

 虫の音が、やけに鮮明に響く。

「守るべきものを、守れなかった」

 喉が詰まる。

「だから決めた。感情は邪魔だと」

 結衣は息を呑む。

「泣いても戻らん。後悔しても数字は変わらん」

 目を閉じる。

「ならば、合理だけで生きる。事故を減らす。リスクを消す。それが償いだと」

 静かな告白。

「でも」

 結衣の声は震えていない。

「美空ちゃんは、あなたを守ろうとしました」

 村上の呼吸が乱れる。

「守る側でいたいのに、守られる側になるのが怖いんですね」

 痛いところを、まっすぐに。

「……私は壁でいたい」

 低い声。

「壁?」

「誰かが倒れても、ぶつかっても、崩れない壁だ」

 虫の声が止む。

「壁は、誰も守れませんよ」

 その瞬間、談話室のドアが開く。

 カイトだった。

 手には布に包まれた何か。

「話、聞こえちゃいました」

 悪びれもなく言う。

 村上は目を細める。

「盗み聞きか」

「たまたま」

 カイトはテーブルに布包みを置く。

 ゆっくりと広げる。

 木の香りがふわりと立ちのぼる。

 手作りの将棋盤。

 滑らかな木目。使い込まれた角。

 村上の視線が止まる。

「……それは」

「源三さんの」

 空気が変わる。

「俺、もらったんです」

 指で盤を撫でる。木の温もりが残る。

「守れなかったって、何度も言ってましたよね」

 村上は顔をしかめる。

「軽々しく言うな」

「軽くない」

 カイトは正面に座る。

「俺、守られなかった側だから」

 視線が交差する。

「でも、あんたが壁になってくれたら、俺たちぶつかれないじゃん」

「何を言っている」

「壁は、冷たい」

 一拍。

「砦になれよ」

 村上の眉が動く。

「砦は、中に人がいる」

 虫の声が戻る。

「負けたくない人、ここにもいますよ」

 カイトは駒袋を開ける。

 木の駒がぶつかる、乾いた音。

 村上の喉が鳴る。

「私は、勝てない」

 ぽつりと落ちる本音。

「息子にも、自分にも」

 カイトは盤に歩を置く。

 コツン、と小さな音。

「じゃあ、俺に勝ってください」

 静かな挑発。

「逃げたら負けです」

 村上の手が膝の上で震える。

 ゆっくりと、駒袋に触れる。

 木の感触。

 指先が冷たい。

「私は合理的だ」

 弱い声。

「将棋は合理の塊だろ」

 カイトは笑う。

「感情で指すと負けますよ」

 沈黙。

 村上は駒を一枚、つまむ。

 わずかに震える手。

 掌に、木の温もりが広がる。

 息子と将棋を指した夜が、よみがえる。

 小さな手が、駒を握りしめていた。

「父さん、もう一局」

 その声。

 胸が締めつけられる。

「……卑怯な手は使わんぞ」

 絞り出すように言う。

「どうぞ」

 カイトはまっすぐ見つめる。

 村上の手が、盤の上へ伸びる。

 駒が、震えながら置かれる。

 コトリ。

 小さな音が、部屋に響く。

 結衣は黙って見守る。

 夜の空気が、ほんの少しだけ柔らぐ。

「壁は」

 村上が呟く。

「外から守る」

「砦は?」

「中からも守る」

 カイトが頷く。

「ここ、砦にしましょうよ」

 村上の目が潤む。

「……私に、できるか」

「今、指しましたよ」

 盤の上には、最初の一手。

 それは、小さな前進。

 虫の声が優しく包む。

 村上はもう一度、駒に触れる。

 震えは、少しだけ収まっている。

 壁が、ほんのわずかに崩れた音がした。

 代わりに、砦の礎が静かに置かれていた。

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