『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第17話「卒業式」

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第17話「卒業式」

 体育館じゃない。

 ここでは、食堂が式場になる。

 いつもならカレーの匂いと、湯気と、食器のぶつかる音で満ちている場所が、今日は違った。床は念入りに拭かれて、ワックスの甘い匂いが鼻の奥に残る。白い折りたたみ椅子が等間隔に並び、壁には子どもたちが切った色紙の花が咲いていた。

《卒業おめでとう》

 文字が少し歪んでいるのが、かえって胸に刺さる。

 壇上の代わりに、いつもの配膳台の前に小さな台が置かれ、マイクが一本立っている。マイクのコードが床を這い、誰かがテープで丁寧に留めていた。剥がれないように、転ばないように。

 結衣は、そのテープの端を無意識に指で押さえ直した。

 指先に、粘着のざらつきが残る。

「よし」

 自分に言い聞かせるみたいに呟く。

 子どもたちの列は、落ち着かない。制服の襟を引っ張ったり、髪を耳にかけたり、靴のつま先で床をこすったり。木目の床がきゅっきゅっと鳴る。

 高齢者側の席は静かだ。背中を丸めた人、手を膝に置いた人、目を閉じている人。けれど目の奥には、ちゃんと灯りがある。いつもより、少しだけ誇らしそうな顔。

 村上は前列の端に座っていた。背筋は相変わらず真っ直ぐで、スーツの皺ひとつない。だが、膝の上に置いた手は微かに震えている。

 結衣は、その震えを見つけて、喉が熱くなった。

 彼がここに座っていること自体が、もう“選んだ”ということだから。

 マイクが「ごん」と鳴る。

 理事長が立ち、紙を持つ手が少し揺れた。

「本日は、『ひだまりの家』合同卒業式にお集まりいただき、ありがとうございます」

 声が広がる。天井に当たって戻ってくる音が、いつもより少し大きい。

 結衣は子どもたちの方を見る。

 カイトが、列の最後に立っていた。

 スーツ姿がまだ身体に馴染んでいない。肩がわずかに浮いていて、指先が落ち着かなくて、ネクタイの結び目を何度も直している。大人の服を借りてきたみたいに見える。

 でも、目だけは違った。

 誰かを見守る目だ。

 ミウが、子ども席の最前列で落ち着かなく足を揺らしている。膝の上の花束の包み紙が、かさかさ鳴る。

 結衣は合図を送る。

 式が始まる。

 卒業証書――といっても、紙は厚手の色画用紙で、子どもたちが描いた花の絵が周りに貼られている。名前の字が少し曲がっているのも、職員が直さない。直さないことに意味がある。

 名前は、そのまま受け取るものだから。

「佐々木——」

 呼名のたびに、子どもが立って返事をする。声が裏返ったり、細かったり、太かったり。高齢者側から、拍手がぽつぽつ起こる。手のひらが乾いた音を立てる。

 カイトの名前が呼ばれると、空気が変わった。

「カイト」

 苗字のない呼び方が、ここの証明みたいで、結衣の胸がきゅっとなる。

「はい」

 カイトの声は低く、少しだけ震えた。

 歩く足音が床に響く。スーツの裾が擦れる音。近づくたびに、洗剤と柔軟剤と、かすかな緊張の汗の匂いが混ざる。

 結衣は証書を渡す。

 指が触れる。あたたかい。生きてる温度。

「おめでとう」

 結衣が言うと、カイトは小さく笑った。

「ありがとう」

 その「ありがとう」に、結衣は息が詰まる。

 ありがとうって言われるだけで、今日までの夜勤も、叱った日も、泣かれた日も、全部が意味を持つみたいだった。

 拍手が起きる。

 その拍手の中に、村上の拍手が混ざっている。遅くて、重い。手のひらがぶつかる音が、ひとつひとつ確かだ。

 続いて、送る言葉。

 今日は高齢者の代表が、子どもたちに言葉を贈ることになっていた。

 結衣は、マイクの前に立つ高齢者たちを見て、喉がまた熱くなる。

 背中が丸いのに、声は強い人がいる。
 言葉が途切れがちでも、目はまっすぐな人がいる。

「わしらは、長く生きた」

 元漁師の老人が言う。指は節だらけで、でもマイクを握る手はしっかりしている。

「けど、長く生きただけじゃ、偉くもなんともない」

 笑いが起きる。子どもたちもくすくす笑う。

「偉いのは、今日ここに立ってるお前らだ。生き延びた」

 その言葉で、笑いが消えて、空気が静まる。

 カイトは唇を噛む。

 次に、シズ――もう席に座っているだけで精一杯の彼女の代わりに、彼女を支えてきた高齢者が言う。

「シズさんがね、言ってました」

 声が柔らかい。

「『忘れても、なくならないものがある』って」

 ミウが、花束を抱えたまま泣きそうな顔をする。

 結衣は奥歯を噛んだ。泣くな、今泣いたら式が滲む。

 そして――

 村上が立った。

 椅子がきしむ音がして、全員の視線が吸い寄せられる。

 村上はマイクの前に立つと、何も書かれた紙を持っていないことに気づく。いつもなら、準備して、段取りして、数字を揃えて出てくる人だ。

 今日は違う。

 喉が動く。

 息を吸う音が、マイクに拾われて広がる。

「私は、ここに来たとき」

 村上は言った。

「交流は無駄だと思っていた」

 ざわ、と小さなざわめき。

「事故は防げる。感情は厄介だ。効率が正しい」

 村上は一度、目を閉じる。

「……そう信じていた」

 声がわずかに震える。

 結衣は手のひらを握りしめる。

 村上は視線を上げ、子どもたちではなく、カイトを見る。

 まっすぐに。

「お前に言われた」

 低い声。

「『孤独もコストだ』と」

 カイトの肩が揺れる。

「その通りだ」

 村上は言い切る。

「数字には出ない。だが、確かに払う」

 会場が静まり返る。虫の鳴き声が遠く聞こえる気がする。

「私は、守れなかった過去がある」

 村上の指が震える。

「だから、壁になろうとした」

 その言葉が、結衣の胸に刺さる。

「だが、壁では守れないものがある」

 村上は息を吐く。

「砦は、中に人がいる」

 そして――

 村上は、カイトを指さすわけでもなく、ただ名前を呼ぶ。

「カイト」

「……はい」

 カイトの返事が、かすれる。

 村上は一歩、近づく。マイクから少し離れたところで言った。

 マイクが拾わないくらいの距離なのに、声はちゃんと届いた。

「お前は砦になれ」

 空気が、熱を持つ。

 その言葉は、聞いたことがある。

 結衣の背中を、源三の声が走り抜ける。

 あの日、庭のベンチで。
 将棋盤の匂いと、夕暮れの風の中で。

『砦になれ』

 同じ言葉。

 でも今度は、違う重さ。

 源三は、孤独から救われた人だった。
 村上は、孤独を切り捨てようとした人だった。

 二つの人生が、同じ言葉で交わる。

 継承が、二重になる。

 カイトの喉が鳴る。

「俺……」

 声が詰まる。

 ミウが、前列から立ち上がりそうになるのを結衣がそっと手で押さえる。

 カイトは唇を噛み、視線を落とす。

 床の木目が見える。柾目。まっすぐな線。

 あの時、土で乱れた線を思い出す。

 守るって、乱れることなんだろうか。

 カイトは顔を上げた。

「村上さん」

 呼ぶ声は、震えながらも強い。

「砦ってさ」

 一拍。

「壊れないやつのことじゃないよな」

 村上の目がわずかに揺れる。

「……壊れても、立ち直るやつだ」

 短い答え。

 その瞬間、カイトの鼻の奥が熱くなる。

「じゃあ」

 カイトは笑ってしまう。泣きそうな笑い。

「俺、何回も壊れてる」

 子どもたちがざわつく。高齢者たちの目が潤む。

「だからいい」

 村上が言う。

「壊れた柾目を、直す術を知ってる」

 結衣の胸がいっぱいになる。

 カイトは、深く息を吸って、吐いて、マイクの方へ半歩進んだ。

「俺、卒業するけど」

 声が、会場に広がる。

「消えるわけじゃない」

 ミウが息を呑む。

「帰る場所って、ひとつじゃないって」

 結衣の言葉を借りる。

「俺、最近それがちょっとわかってきた」

 カイトはミウを見る。

 ミウは涙を溜めて、口をぎゅっと結んでいる。

「ミウ」

 名前を呼ぶだけで、胸が痛い。

「俺、帰ってくる」

 今度は、答える。逃げない。

「約束っていうか」

 苦笑。

「ここが俺の砦だから」

 ミウの頬から涙が落ちる。花束の包み紙が、かさ、と鳴る。

 拍手が起きる。

 最初は小さく、次第に大きくなって、会場の空気を揺らす。

 高齢者の拍手はゆっくりで、子どもの拍手は速い。混ざって、変なリズムになる。けれど、その不揃いが、ここらしい。

 結衣は目を伏せ、涙を飲み込む。

 マイクが少しハウリングして、誰かが笑った。

 笑いが起きて、また拍手が起きて。

 ワックスの匂いと、花の紙の匂いと、涙のしょっぱさが混ざっていく。

 式が終わり、席が崩れる。

 子どもたちが高齢者に花を渡しに行く。花束の紙が擦れる音。小さな手が大きな手に触れる。

 カイトは村上の前に立った。

「……言ったな」

 村上が低く言う。

「言いましたね」

 カイトは笑う。

「砦になれって」

 村上は少しだけ口角を上げた。

「言った」

「俺さ」

 カイトは胸ポケットを軽く叩く。そこには、源三の将棋盤の駒が一枚、守り札みたいに入っている。

「二人に言われたら、逃げらんねえよ」

「逃げるな」

 村上が即答する。

「逃げたら、負けだ」

 カイトは吹き出す。

「それ、将棋のときも言ってた」

「事実だ」

 村上は短く言って、カイトの肩に手を置いた。

 重い手。

 でも、温かい。

「守れ」

 村上が言う。

「誰かを、ではない」

 カイトが眉を寄せる。

「何を?」

「場所を」

 村上の声が低くなる。

「ここを失えば、人は散る。散れば、孤独が戻る」

 カイトの喉が鳴る。

「……俺にできるか」

「できる」

 村上は迷いなく言う。

「お前は、砦になれる」

 カイトは頷いた。

 外で、春の風が吹く。

 テラスのラベンダーが揺れて、青い匂いが流れ込んでくる。

 食堂の隅のベンチが、きし、と鳴った気がした。

 源三の席。

 そこに、今は誰も座っていない。

 でも、空席はもう、寂しく見えなかった。

 ここにいる全員が、誰かの言葉を受け取って、次に渡す準備をしている。

 砦は、石じゃない。

 時間でできている。

 選び続けた時間で。

 カイトは、胸の奥にその言葉をしまい込んだ。

 今日の拍手の音と一緒に。

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