『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第16話「帰る場所」

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第16話「帰る場所」

 春の匂いは、いつも少しだけ嘘くさい。

 風は温かいのに、影はまだ冷たくて、庭の土は湿っている。施設の裏手の花壇では、ラベンダーの新芽が小さく伸びていて、指で触れると青い香りが立った。

 カイトはその匂いを吸い込みながら、スマホの画面を見つめていた。

《内定通知》

 白い背景に並ぶ文字が、やけに明るい。眩しいというより、目に刺さる。

 親指が震えて、スクロールが少しずれる。

「……ほんとに、来たんだな」

 呟いた声は、自分の耳にも頼りなく聞こえた。

 背後でガラス戸が開く音がして、室内の暖房の匂いが流れ出る。

「カイト?」

 結衣だった。

 彼女はエプロンの紐を結び直しながら、テラスに出てくる。髪には微かにシャンプーの香り。手には、子ども用の薄い上着が一枚。

「外、寒いよ」

「今は、寒くない」

 カイトはスマホを握りしめたまま、視線を逸らす。嘘をつくみたいに。

 結衣は隣のベンチに腰を下ろす。木が軋んで、春の静けさに小さな音が混ざった。

「何、そんな顔してるの」

「別に」

「別にって顔じゃない」

 結衣の声は穏やかなのに、逃げ道を塞ぐ。

 カイトは息を吐いて、スマホの画面を少しだけこちらに向けた。

「……内定」

 結衣の目が一瞬、丸くなる。

「え」

 次に、笑う。

「すごいじゃん」

 その「すごい」が、嬉しいはずなのに、胸の奥でひっかかった。まるで、祝福がそのまま別れの合図みたいで。

「給料も、まあまあいい」

「まあまあ?」

「高い方」

 カイトは笑おうとして、うまく笑えなかった。

 結衣は画面をじっと見る。指先が膝の上で小さく動く。

「おめでとう」

 言葉は柔らかい。けれど、目の奥が揺れている。

「……『帰ってこい』って言わないんだ」

 カイトがぽつりと言う。

 結衣は息を吸って、鼻からゆっくり吐いた。春の空気が肺に入って、少し冷たい。

「言わないよ」

 短く。

「あなたの人生よ」

 その言い方が、優しいのに、突き放すみたいだった。

「でもさ」

 カイトはベンチの端を指でなぞる。木のざらつき。小さな棘が皮膚に引っかかる。

「俺がいなくても、ここは回るの?」

 結衣はすぐに答えない。庭の奥で子どもが笑う声がして、風鈴が小さく鳴った。

「……回るようにする」

 結衣は言った。

「回るように、私が回す」

 強がりみたいに言い切る。

 カイトの胸が、じんと熱くなる。嬉しいのとは違う熱。痛い熱。

「俺がいなくても、って言ったけど」

 言葉が勝手に続く。

「俺、いないの、想像できないんだよ」

 結衣が顔を上げる。

「ここに?」

「うん」

 カイトは喉を鳴らした。

「ここって……帰る場所じゃん」

 言った瞬間、自分の声が幼く聞こえて、悔しくなる。

 結衣は何か言いかけて、やめた。代わりに、手を伸ばして、カイトの肩を軽く叩く。

「帰る場所は、ひとつじゃないよ」

「それ、綺麗ごと」

 カイトは笑いながら言う。でも笑いは乾いている。

 結衣も少し笑う。

「綺麗ごとでも、必要な言葉ってあるでしょ」

 沈黙が落ちる。

 ラベンダーの香りが濃くなった。風が花壇を撫で、湿った土の匂いがふわりと上がる。

 そのとき、背後から軽い足音が聞こえた。

「お兄ちゃん!」

 ミウだった。

 小さな体がテラスに飛び出してきて、カイトの膝に勢いよくぶつかる。柔らかい重み。ほのかに甘いお菓子の匂い。

「ただいま」

 カイトが言うと、ミウは顔を上げて笑う。前歯が一本、ぐらぐらしている。

「ねえ、見て! 歯、取れそう!」

「すげえ、もうそんな時期か」

 カイトが指を伸ばすと、ミウは口をすぼめて見せる。唾の匂いと、子どもの息の温かさ。

 結衣が微笑んで見ている。

 ミウは急に真顔になる。

「……お兄ちゃん、さ」

 声が小さくなる。

「うん?」

「今日ね、先生が言ってた」

 ミウは言葉を探すみたいに目を泳がせる。

「大学生は、会社ってとこに行くんだって」

 カイトの喉が、きゅっと縮む。

「そうだね」

「そしたら……」

 ミウはカイトの服の裾をぎゅっと握る。小さな指が強い。

「帰ってくるよね?」

 空気が、一瞬だけ止まる。

 庭の子どもたちの声が遠くなり、風鈴の音も消えた気がした。

 結衣が息を吸うのが聞こえる。

 カイトは、ミウの頭を撫でようとして、手が止まった。

 嘘をつきたくない。

 でも、本当のことも言いたくない。

 ミウの瞳が、まっすぐこちらを見上げている。揺れていない。信じ切っている。

 その信頼が、胸を刺す。

「……帰ってくる」

 言おうとして、声がかすれた。

 ミウが顔を歪める。

「……ほんと?」

 その「ほんと」が、釘みたいに心臓に打ち込まれる。

 結衣が、静かに口を開いた。

「ミウちゃん」

 優しい声。

「お兄ちゃんはね、大人になるんだよ」

「大人って、帰ってこないの?」

 ミウの声が震える。

 カイトは息を吐く。春の空気が苦い。

「ミウ」

 名前を呼ぶだけで、胸が痛い。

「帰ってこないって意味じゃない」

「じゃあ、帰ってくる?」

 ミウはしつこいほど聞く。子どもは、残酷なくらい本質を外さない。

 カイトは笑ってごまかそうとした。

「……俺さ、会社の人に言われたんだ」

「なに?」

「『あなたはここにいてはいけない』って」

 ミウが眉をひそめる。

「なんで?」

「才能があるから、って」

 言った瞬間、自分の言葉が薄っぺらくて腹が立った。

 ミウは首を傾げる。

「才能って、お兄ちゃんがここにいること?」

 鋭い。

 結衣が目を伏せる。

 カイトは黙る。

「お兄ちゃんがいないと」

 ミウは小さく言った。

「わたし、また、しゃべれなくなる」

 その声は、泣き声より静かだった。

 静かなのに、壊れる音がした。

 カイトの胸が、ぎゅっと握り潰される。

「ミウ……」

 呼ぶだけで、喉が熱くなる。

「いやだ」

 ミウはカイトの服を引っ張る。

「いやだよ、置いていかないで」

 結衣が立ち上がり、ミウの肩に手を置く。

「ミウちゃん、大丈夫」

「大丈夫じゃない!」

 ミウが初めて大きな声を出す。声が割れて、喉が痛そうだ。

 カイトは、その声に背中を殴られたみたいに固まる。

 自分がいなくなるだけで、この子の世界が崩れる。

 そう思うのは傲慢かもしれない。

 でも、現実に、目の前で崩れようとしている。

 カイトはゆっくりと膝をつき、ミウと目線を合わせた。

 ミウの頬は赤い。鼻先が少し濡れている。

「ミウ、聞いて」

 声をできるだけ柔らかくする。

「俺がどこに行っても」

 一拍。

「ミウのこと、忘れない」

 ミウは唇を噛む。

「忘れないじゃなくて」

 震える声。

「ここにいて」

 カイトは目を閉じる。

 ラベンダーの匂いが濃い。春の空は青い。こんな日に、別れの話をするのが、どうしようもなく残酷だ。

 目を開けると、結衣が見ていた。静かな顔。

「あなたの人生よ」

 もう一度、結衣が言う。

 今度は、少しだけ祈るみたいに。

 カイトは頷けなかった。

 頷いたら、ここを捨てることになる気がした。

 風が吹く。

 テラスのベンチが、きし、と鳴る。

 源三がいつも座っていた場所。

 そこに、今は誰もいない。

 空席が、春の光に晒されている。

 カイトはその空席を見つめた。

 帰る場所って、何だ。

 住所じゃない。

 契約でもない。

 呼ばれる声だ。

 服の裾を握る小さな指の力だ。

 カイトの胸の奥で、何かが揺れた。

 それは決意じゃない。

 まだ。

 ただ、帰り道を失いたくないという、子どもみたいな感情だった。

 ミウが、もう一度言う。

「お兄ちゃん、帰ってくるよね?」

 カイトは答えられない。

 答えの代わりに、ミウの頭を抱き寄せた。

 小さな体温が、胸に押しつけられる。

 温かくて、怖い。

 帰る場所が、こんなにも重いなんて、知らなかった。

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