『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第19話「選択」

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第19話「選択」

 朝の空気は、やけに澄んでいた。

 雨上がりの匂いが土から立ちのぼり、ラベンダーの葉先に水滴が残っている。ひとつ落ちて、石畳に小さな音を立てた。

 カイトはテラスのベンチに座り、スマホを握っていた。

 画面には、企業のロゴと、短い文章。

《本日中にご回答をお願いいたします》

 期限。

 文字が、逃げ道を塞ぐ。

 親指が、承諾のボタンの上で止まる。

 喉が渇く。息を吸うと、湿った土の匂いが肺に入り、妙に現実味を帯びる。

「……今日か」

 呟いた声が、朝の空気に溶ける。

 背後でガラス戸が開く音。

「早いね」

 結衣だった。手には洗濯かご。タオルの柔軟剤の匂いがふわりと漂う。

「眠れなかった?」

「まあ」

 カイトは笑う。笑いは浅い。

 結衣は隣に座らない。少し距離を置いて、手すりに寄りかかる。

「今日、返事?」

「うん」

 短い返事。

 沈黙が落ちる。遠くで子どもが走る足音がして、朝の光が揺れる。

「どうするの」

 結衣は聞く。責める声でも、期待する声でもない。

「わかんない」

 カイトは正直に言った。

「安定だよ。給料もいい。福利厚生も完璧」

「うん」

「ここより、ずっと」

 結衣は頷く。

「ここは、不安定」

「うん」

「いつ潰れるかわかんない」

 言ってから、胸が少し痛む。

「でも」

 カイトはベンチの木目を指でなぞる。ざらりとした感触。小さな傷がいくつもある。

「ここ、なくなったら」

 言葉が止まる。

「どうなるんだろうな」

 結衣は、少し笑った。

「なくさないよ」

「保証ある?」

「ない」

 即答。

 カイトは苦笑する。

「ないんだ」

「ないけど、やる」

 結衣の目が強い。

「やる人がいるから、ここはある」

 その言葉が、胸に刺さる。

「……俺がいなくても?」

 カイトは視線を逸らす。

 結衣は少し考えてから言う。

「正直に言うとね」

「うん」

「痛い」

 カイトが顔を上げる。

「あなたがいなくなるのは、痛い」

 風が吹く。洗濯かごのタオルが揺れる。

「でも」

 結衣は続ける。

「あなたの人生を、ここで縛るのは違う」

 カイトの喉が鳴る。

「縛られてるって思ってない」

「思わなくても、なることある」

 静かな声。

「恩とか、責任とか」

 カイトはスマホを握り直す。指先が冷たい。

「俺さ」

 ゆっくり言う。

「恩で残るの、嫌なんだよ」

「うん」

「ヒーローみたいに、『俺が守る』とか言うのも、嫌」

 吐き出す。

「そんなかっこいいもんじゃない」

 結衣は黙って聞いている。

「俺、正直に言うと」

 カイトは目を閉じる。

「怖い」

 言葉にすると、体が少し震える。

「外に出て、ここがなくなったらって思うと、怖い」

 それは、責任感でも正義感でもない。

 ただの恐怖。

「ここがなくなったら」

 カイトは続ける。

「帰る場所、なくなる」

 結衣の胸が、きゅっと締まる。

「帰る場所はひとつじゃないって、言ったじゃん」

「言ったな」

「本気で言ったよ」

「わかってる」

 カイトは目を開ける。

「でもさ、俺にとっては」

 一拍。

「ここが最初なんだよ」

 ラベンダーの匂いが強くなる。陽が少し高くなった。

 スマホが、かすかに震える。企業からのリマインド通知。

 時間だ。

「電話?」

 結衣が聞く。

「うん」

 カイトは立ち上がる。足が少し重い。

「ここでいい?」

「うん」

 結衣は距離をとる。

 カイトは深呼吸する。湿った空気が胸に入り、吐き出すと少しだけ楽になる。

 通話ボタンを押す。

「お世話になっております」

 自分の声が、少しだけよそ行きになる。

「はい、カイトです」

 向こうから明るい声。期待に満ちたトーン。

「本日、ご返答とのことでしたが」

 喉が渇く。

 舌が上顎に張りつく。

 カイトは空を見上げる。青い。高い。逃げ場みたいに広い。

「はい」

 声が出る。

「……辞退させていただきます」

 沈黙。

 向こうの声が一瞬、止まる。

「理由を伺っても?」

 カイトは目を閉じる。

「……別の道を選びました」

 嘘じゃない。けど、全部でもない。

「待遇に不満が?」

「いいえ」

 カイトは首を振る。誰も見ていないのに。

「とても、魅力的でした」

「でした?」

「はい」

 一拍。

「でも」

 息を吸う。

「俺は、ここで生きることを選びます」

 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなる。

「ここ?」

「地域の施設です」

 向こうの声が少し低くなる。

「将来性を考えれば――」

「考えました」

 カイトは静かに言う。

「考えて、怖くなって」

 一拍。

「それでも、選びました」

 沈黙。

 遠くで、ミウの笑い声が聞こえる。誰かと鬼ごっこをしているらしい。息を切らしながら「まってー!」と叫んでいる。

 その声が、背中を押す。

「……わかりました」

 電話の向こうが言う。

「ご活躍をお祈りします」

「ありがとうございます」

 通話が切れる。

 画面が暗くなる。

 自分の顔が、黒い画面に映る。少し青ざめている。

「終わった?」

 結衣が聞く。

「うん」

「どう?」

 カイトは少し考える。

「……静か」

 心が、妙に静かだった。

 ヒーローみたいな高揚感はない。ガッツポーズも出ない。

 ただ、腹の底に、重い石みたいなものがある。

「怖くない?」

 結衣が聞く。

「怖いよ」

 即答。

「超怖い」

 笑う。

「でも」

 ラベンダーの葉を指でつまむ。青い香りが強くなる。

「ここがなくなるの、もっと怖い」

 結衣の目が潤む。

「俺、守るとか言わない」

 カイトは続ける。

「守れるかわかんないし」

 一拍。

「でも、逃げない」

 それだけ。

 それが、自分の覚悟。

「俺はここで生きる」

 声は静かだ。

 宣言じゃない。誓いでもない。

 ただの選択。

 結衣が、ゆっくり頷く。

「じゃあ、働いてもらおうかな」

 少し笑う。

「安月給だけど」

「知ってる」

 カイトも笑う。

 笑いながら、目の奥が熱い。

 そのとき、ミウが走ってくる。

「お兄ちゃん!」

 汗の匂いと、草の匂い。

「なにしてたの?」

「電話」

「どこ行くの?」

 カイトはしゃがみ、ミウの目を見る。

「どこにも行かない」

 ミウが目を丸くする。

「ほんと?」

「ほんと」

 ミウの顔がぱっと明るくなる。

 抱きついてくる体が軽い。温かい。

「よかった!」

 その声が、胸に染みる。

 ヒーローじゃない。

 拍手もない。

 ただ、小さな体温がある。

 ラベンダーの匂いと、朝の光と、遠くで鳴る風鈴。

 カイトはミウの背中を抱きしめながら、胸の奥の重い石を感じていた。

 重い。

 でも、逃げないと決めた重さだ。

 それが、覚悟だった。

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