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第20話『ひだまりの屋根の下で』
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夕食の匂いは、いつも少しだけ安心を連れてくる。
大きな寸胴から立ちのぼる湯気。
今日は肉じゃがだ。出汁の甘い香りと、煮崩れかけたじゃがいもの匂い。玉ねぎの柔らかな甘さが鼻をくすぐる。
「おかわり、まだあるよ」
配膳台の向こうで調理員の声が響く。鍋の底をお玉がこすり、金属の触れ合う音が鳴る。
ミウが皿を抱えて、目を輝かせる。
「今日のお肉、やわらかい!」
「そりゃ、じっくり煮てるからな」
カイトが笑う。エプロン姿が板についてきた。
隣の子がぽつりと言う。
「ここってさ」
スプーンでじゃがいもを割りながら。
「昨日の残り、出ないよね」
空気が一瞬、止まる。
「……出ないね」
ヒナが答える。
「毎日ちがう」
「家だとさ」
その子は続ける。声は軽いのに、指先が少し強張っている。
「三日連続カレーとか、普通だった」
ミウが首をかしげる。
「三日も?」
「うん。だって、捨てたら怒られるから」
肉じゃがの湯気が、急に熱く感じる。
カイトは皿を見下ろす。
施設は大きい。人数が多い。
計算された献立。
栄養士のバランス。
廃棄はほとんど出ない。
効率的。合理的。
でも、ここにいる子どもたちにとっては、それ以上だ。
「ちゃんとしたごはん」なんだ。
「贅沢なのよね」
後ろから、村上の声がする。
「何がですか」
結衣が振り向く。
村上は湯呑みを手にしている。湯気が立ちのぼり、茶葉の香りが広がる。
「同じものを食べなくていいというのは」
淡々と言う。
「贅沢だ」
ミウが眉を寄せる。
「え、でもさ」
「でも、家では」
ヒナが口を挟む。
「お母さんが残り物処理するの、大変だったって言ってた」
「残り物処理は、主婦の仕事だ」
村上が頷く。
「それをしないで済むのは、贅沢だ」
カイトが皿を置く。
「贅沢って、悪いことですか」
村上は少し目を細める。
「悪くはない」
一拍。
「だが、慣れると戻れん」
その言葉が、ゆっくり沈む。
ミウのスプーンが止まる。
「戻るって?」
結衣が優しく言う。
「夏休み、どうする?」
空気が重くなる。
夏休み。
冬休み。
ゴールデンウィーク。
実親のもとへ帰る子どもたち。
「お母さん、ちゃんとごはん作ってるかな」
ヒナが小さく言う。
「冷蔵庫、空っぽだったらどうしよう」
別の子が呟く。
「ガス止まってないかな」
誰も笑わない。
カイトの胸が、きゅっと縮む。
自分も、あの帰省の匂いを知っている。
湿った畳。
冷えた空気。
冷蔵庫を開けたときの、何もない匂い。
「追い炊き、しないんだよね」
ミウが突然言う。
「ここ」
結衣が笑う。
「しないね」
「昨日のお湯、使わないの?」
「使わないよ」
ミウは目を丸くする。
「もったいなくない?」
その言葉が、静かに刺さる。
カイトが息を吸う。
「もったいないってさ」
ぽつりと言う。
「言われる側の気持ち、知ってる?」
誰も答えない。
「風呂の残り湯が冷えてて」
カイトはゆっくり続ける。
「ぬるい水みたいで」
喉が少し詰まる。
「でも、追い炊きできなくて」
ミウがじっと聞いている。
「その中に入るとさ」
一拍。
「なんか、自分まで残り物みたいな気分になる」
静寂。
村上の湯呑みの中で、茶が揺れる。
結衣が目を伏せる。
ヒナが言う。
「ここは、残り物じゃないよね」
カイトが頷く。
「うん」
「ちゃんと、新しい」
ミウが笑う。
「今日のお風呂、あったかいよ」
無邪気な声。
でも、その無邪気さが、痛い。
「帰るの、こわい?」
結衣が聞く。
ヒナが頷く。
「ちょっと」
「お母さん、悪い人じゃないよ」
すぐに付け足す。
「でも」
言葉が続かない。
村上が低く言う。
「心配するのは、正常だ」
「でもさ」
ミウが顔を上げる。
「ここが普通になっちゃったら、どうするの?」
子どもらしい問い。
けれど、本質だ。
カイトはゆっくり答える。
「普通はさ」
肉じゃがの湯気を見つめる。
「ひとつじゃない」
ミウが首をかしげる。
「家で残り物食べるのも、普通」
「ここで新しいごはん食べるのも、普通」
「どっちも、本当」
一拍。
「でも」
カイトは続ける。
「腹いっぱい食べられる場所があるって知ってるのは、悪くない」
村上が頷く。
「選択肢があるということだ」
ヒナが小さく笑う。
「贅沢だね」
「うん」
ミウがにこっとする。
「贅沢、好き」
その声に、場の空気が少し軽くなる。
結衣が配膳台を見回す。
「明日の朝ごはん、何にしようかな」
「パン!」
「いや、和食!」
声が重なる。
子どもたちの笑い声が、食堂の天井に広がる。
湯気が、まだ立っている。
外では、夕方の空が少し紫がかってきている。
帰省の季節は、すぐそこだ。
不安も、心配も、消えない。
でも。
今、この瞬間。
ちゃんと温かい皿がある。
ちゃんと湯気が立っている。
ちゃんと、名前を呼ばれる場所がある。
カイトは皿を持ち上げる。
「食えるときに食っとけ」
少し笑う。
「贅沢は、悪くない」
ミウが口いっぱいにじゃがいもを頬張る。
「おいしい!」
その声が、食堂いっぱいに広がる。
残り物じゃない。
誰かの残りじゃない。
今ここで、ちゃんと“用意された”食事。
その匂いが、夜へとゆっくり溶けていった。
大きな寸胴から立ちのぼる湯気。
今日は肉じゃがだ。出汁の甘い香りと、煮崩れかけたじゃがいもの匂い。玉ねぎの柔らかな甘さが鼻をくすぐる。
「おかわり、まだあるよ」
配膳台の向こうで調理員の声が響く。鍋の底をお玉がこすり、金属の触れ合う音が鳴る。
ミウが皿を抱えて、目を輝かせる。
「今日のお肉、やわらかい!」
「そりゃ、じっくり煮てるからな」
カイトが笑う。エプロン姿が板についてきた。
隣の子がぽつりと言う。
「ここってさ」
スプーンでじゃがいもを割りながら。
「昨日の残り、出ないよね」
空気が一瞬、止まる。
「……出ないね」
ヒナが答える。
「毎日ちがう」
「家だとさ」
その子は続ける。声は軽いのに、指先が少し強張っている。
「三日連続カレーとか、普通だった」
ミウが首をかしげる。
「三日も?」
「うん。だって、捨てたら怒られるから」
肉じゃがの湯気が、急に熱く感じる。
カイトは皿を見下ろす。
施設は大きい。人数が多い。
計算された献立。
栄養士のバランス。
廃棄はほとんど出ない。
効率的。合理的。
でも、ここにいる子どもたちにとっては、それ以上だ。
「ちゃんとしたごはん」なんだ。
「贅沢なのよね」
後ろから、村上の声がする。
「何がですか」
結衣が振り向く。
村上は湯呑みを手にしている。湯気が立ちのぼり、茶葉の香りが広がる。
「同じものを食べなくていいというのは」
淡々と言う。
「贅沢だ」
ミウが眉を寄せる。
「え、でもさ」
「でも、家では」
ヒナが口を挟む。
「お母さんが残り物処理するの、大変だったって言ってた」
「残り物処理は、主婦の仕事だ」
村上が頷く。
「それをしないで済むのは、贅沢だ」
カイトが皿を置く。
「贅沢って、悪いことですか」
村上は少し目を細める。
「悪くはない」
一拍。
「だが、慣れると戻れん」
その言葉が、ゆっくり沈む。
ミウのスプーンが止まる。
「戻るって?」
結衣が優しく言う。
「夏休み、どうする?」
空気が重くなる。
夏休み。
冬休み。
ゴールデンウィーク。
実親のもとへ帰る子どもたち。
「お母さん、ちゃんとごはん作ってるかな」
ヒナが小さく言う。
「冷蔵庫、空っぽだったらどうしよう」
別の子が呟く。
「ガス止まってないかな」
誰も笑わない。
カイトの胸が、きゅっと縮む。
自分も、あの帰省の匂いを知っている。
湿った畳。
冷えた空気。
冷蔵庫を開けたときの、何もない匂い。
「追い炊き、しないんだよね」
ミウが突然言う。
「ここ」
結衣が笑う。
「しないね」
「昨日のお湯、使わないの?」
「使わないよ」
ミウは目を丸くする。
「もったいなくない?」
その言葉が、静かに刺さる。
カイトが息を吸う。
「もったいないってさ」
ぽつりと言う。
「言われる側の気持ち、知ってる?」
誰も答えない。
「風呂の残り湯が冷えてて」
カイトはゆっくり続ける。
「ぬるい水みたいで」
喉が少し詰まる。
「でも、追い炊きできなくて」
ミウがじっと聞いている。
「その中に入るとさ」
一拍。
「なんか、自分まで残り物みたいな気分になる」
静寂。
村上の湯呑みの中で、茶が揺れる。
結衣が目を伏せる。
ヒナが言う。
「ここは、残り物じゃないよね」
カイトが頷く。
「うん」
「ちゃんと、新しい」
ミウが笑う。
「今日のお風呂、あったかいよ」
無邪気な声。
でも、その無邪気さが、痛い。
「帰るの、こわい?」
結衣が聞く。
ヒナが頷く。
「ちょっと」
「お母さん、悪い人じゃないよ」
すぐに付け足す。
「でも」
言葉が続かない。
村上が低く言う。
「心配するのは、正常だ」
「でもさ」
ミウが顔を上げる。
「ここが普通になっちゃったら、どうするの?」
子どもらしい問い。
けれど、本質だ。
カイトはゆっくり答える。
「普通はさ」
肉じゃがの湯気を見つめる。
「ひとつじゃない」
ミウが首をかしげる。
「家で残り物食べるのも、普通」
「ここで新しいごはん食べるのも、普通」
「どっちも、本当」
一拍。
「でも」
カイトは続ける。
「腹いっぱい食べられる場所があるって知ってるのは、悪くない」
村上が頷く。
「選択肢があるということだ」
ヒナが小さく笑う。
「贅沢だね」
「うん」
ミウがにこっとする。
「贅沢、好き」
その声に、場の空気が少し軽くなる。
結衣が配膳台を見回す。
「明日の朝ごはん、何にしようかな」
「パン!」
「いや、和食!」
声が重なる。
子どもたちの笑い声が、食堂の天井に広がる。
湯気が、まだ立っている。
外では、夕方の空が少し紫がかってきている。
帰省の季節は、すぐそこだ。
不安も、心配も、消えない。
でも。
今、この瞬間。
ちゃんと温かい皿がある。
ちゃんと湯気が立っている。
ちゃんと、名前を呼ばれる場所がある。
カイトは皿を持ち上げる。
「食えるときに食っとけ」
少し笑う。
「贅沢は、悪くない」
ミウが口いっぱいにじゃがいもを頬張る。
「おいしい!」
その声が、食堂いっぱいに広がる。
残り物じゃない。
誰かの残りじゃない。
今ここで、ちゃんと“用意された”食事。
その匂いが、夜へとゆっくり溶けていった。
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