『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第21話 帰省

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帰省

 玄関を開けた瞬間、カレーの匂いがした。

 玉ねぎを焦がしかけた甘い匂いと、市販のルウの少し粉っぽい匂い。鍋の蓋が小さく震えて、ぐつぐつと煮える音が台所から聞こえてくる。

「おかえり!」

 母の声は明るすぎた。

 弾んでいて、少しだけ高い。無理に笑っているときの声。

 少年は靴を脱ぎながら、視線を上げない。

「……ただいま」

 声が低い。

 以前よりも、低い。

 母は一瞬、その変化に戸惑う。でもすぐに笑う。

「背、伸びた? ねえ、伸びたよね?」

 少年は返事をしない。

 廊下の空気が少し冷たい。畳の匂いが湿っている。数日前まで閉め切っていた家の匂いだ。

 母はエプロンの端で手を拭く。掌にじっとり汗がにじんでいる。

「今日はね、あんたの好きなカレー。ちゃんとお肉も入れたのよ」

 少年がリビングに入る。

 テレビのリモコンがテーブルに置かれたまま。カーテンは半分閉じている。昼間なのに、部屋が少し暗い。

「……別に、カレー好きじゃないし」

 ぽつり。

 その一言が、空気を切る。

「え?」

 母は笑ったまま固まる。

「前は好きだったでしょ? 三杯も食べて」

「昔でしょ」

 少年はソファに座り、スマホを取り出す。

 指が慣れた動きで画面を滑る。光が顔を青白く照らす。

 母は台所へ戻る。お玉を握る手が震える。鍋の中のカレーが泡を弾く。焦げる匂いが少し強くなる。

「……お風呂も沸かしてあるから」

 背中越しに言う。

「追い炊きもしたし」

「ここ、まだ追い炊きなんだ」

 少年の声に、かすかな棘がある。

「施設は毎日入れ替えなんだよ」

 母の動きが止まる。

「……そう」

 笑顔を作る。顔の筋肉がひきつる。

「そっちのほうが、贅沢ね」

 少年は顔を上げない。

「贅沢っていうか、普通」

 その「普通」が、母の胸をえぐる。

 皿にカレーを盛る。湯気が立つ。スパイスの匂いが鼻を刺す。けれど、母の鼻にはもう匂いが届いていない。

「はい」

 テーブルに置く。

 少年はスプーンを手に取るが、すぐに置く。

「……ちょっと油っぽい」

 母の心臓が、どくん、と鳴る。

「え?」

「施設のほうが、もっとあっさりしてる」

 スプーンが皿に触れて、小さな音を立てる。

「栄養士がいるし」

 母は椅子に座る。

 視界の端が白くなる。

「毎月、面会に行ってたのに」

 声が震える。

「ちゃんと、見てたつもりだったのに」

 少年は黙る。

 テレビのリモコンを手に取り、無音のまま画面をつける。明るい映像が流れ、部屋の暗さを浮き上がらせる。

「俺、もう子どもじゃないから」

 少年は言う。

「迎えに来なくていいって、何回も言ったよね」

 母の喉が詰まる。

「でも、会いたかったから」

「俺は、会わなくても平気だった」

 言葉が、静かに突き刺さる。

 母の視界が揺れる。

 ぐらり、と。

「……そんなこと、言わないで」

 声が遠い。

「だって本当だし」

 少年は立ち上がる。

「ここ、狭いし」

 部屋を見回す。

「なんか、息苦しい」

 母の耳鳴りが強くなる。

 畳の匂いが急に濃くなる。カレーの匂いが重い。テレビの光がちらつく。

「面会のときさ」

 少年は続ける。

「いつも同じことしか言わなかったよね」

「え?」

「『元気?』『ごはん食べてる?』『寂しくない?』」

 母の手が、テーブルの縁を掴む。

「俺、違う話したかった」

「違う……?」

「今の話」

 一拍。

「俺、変わってるのに」

 母の頭の中が、真っ白になる。

 変わってる?

 そんなはずない。

 毎月会ってた。

 顔も見てた。

 声も聞いてた。

 でも――

 少年の声が、急に遠くなる。

「母さんさ、俺のこと、昔のまま見てる」

 ぐらり。

 視界が暗くなる。

 カレーの皿が、ゆっくり傾く。スプーンが床に落ちる音が、やけに大きい。

「……母さん?」

 少年の声。

 母の膝が崩れる。

 床が近づく。

 畳の匂いが、鼻を埋める。

 そのまま、何もわからなくなった。

 

 目を開けると、白い天井だった。

 消毒液の匂い。

 カーテン越しの光。

「……ここ、どこ」

 声がかすれる。

 横に、少年が立っている。

 目が赤い。

「病院」

 短く答える。

「母さん、倒れた」

 母は瞬きをする。

「……今日、面会だっけ?」

 少年の表情が固まる。

「違うよ」

「え?」

「帰省中」

 母の胸が、きゅっと締まる。

 帰省。

 カレー。

 追い炊き。

 思い出そうとすると、頭の奥が痛む。

「……ごめんね」

 口から出たのは、それだった。

 少年は唇を噛む。

「俺が悪いみたいじゃん」

「違うの」

 母は言う。

「わたし、気づかなかった」

 涙が滲む。

「毎月会ってたのに」

 少年の肩が、わずかに震える。

「俺も、言わなかった」

 小さな声。

「変わってるって」

 一拍。

「怖かった」

 母の喉が震える。

「なにが」

「母さんが、ついてこれないの」

 静かな告白。

 母の胸が、音を立てて崩れる。

 少年は視線を逸らす。

「施設でさ」

 言葉を探す。

「ちゃんと、俺の話聞いてくれる人、いる」

 母の手が、シーツを握る。

「……よかった」

 震える声。

「よかったの」

 涙がこぼれる。

「ちゃんと、聞いてもらえて」

 少年が顔を上げる。

「母さん」

「うん」

「俺、反抗した」

「うん」

「ひどいこと言った」

 母は小さく笑う。

「覚えてないの」

 正直に言う。

「でも」

 一拍。

「傷ついたのは、わかる」

 胸を押さえる。

「ここ、痛いから」

 少年の目から、涙が落ちる。

「俺、母さんのこと、嫌いじゃない」

 声が震える。

「ただ」

「うん」

「昔の俺でいられない」

 母は、ゆっくり頷く。

「いいの」

 かすれた声。

「ちゃんと、変わって」

 少年が、そっと母の手を握る。

 温かい。

 その温度は、昔と同じじゃない。

 少し大きくて、少し強い。

 母はその手を、ぎゅっと握り返す。

「次の面会は」

 少年が言う。

「ちゃんと、今の俺の話する」

 母は涙を流しながら笑う。

「聞くわ」

 一拍。

「ちゃんと、聞く」

 消毒液の匂いの中で、二人の手の温もりだけが、確かだった。

 記憶は飛んだかもしれない。

 でも、消えないものが、そこにあった。

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