『ひだまりの屋根の下で 〜世代を超えた家族の物語〜』

かおるこ

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第25話 『砦は続いていく』

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第25話 『砦は続いていく』

 夕方の光は、いつも嘘みたいだ。

 昼の白さがほどけて、空が深い群青へ沈む直前――マジックアワー。『ひだまりの家』のテラスには、小さな灯りがいくつも灯り始めていた。ガラスのランタン、壁際のソーラーライト、誰かが手作りした紙の提灯。淡い光が木目を撫で、ベンチの影を長く伸ばす。

 ラベンダーは、季節を越えても香りを忘れない。夕風が葉を揺らすたび、青い匂いが鼻の奥をくすぐる。遠くでハーモニカの音が一音だけ外れて、誰かが笑った。

「美空、そっち、紐ほどけてる」

 カイトが言う。

 テラスの手すりに紙の提灯を結びつけている美空は、振り向かずに答えた。

「わかってる。今ほどくと全部落ちるから、後で」

 声が高校生になっていた。尖りもある。でも、その尖りは誰かを刺すためじゃなく、自分を立たせるための尖りだ。

「後で、ね」

 カイトは苦笑しながら、提灯の下で手を広げる。

「落ちたら俺のせいって言うなよ」

「言う」

「言うのかよ」

 二人の掛け合いに、テラスの奥で村上が小さく鼻で笑った。

 村上は将棋盤に向かっている。膝の上の盤は、源三の形見ではない。あの盤は今、事務室の棚の一番上に、大事に布をかけて置かれている。代わりに村上が抱えているのは、施設が新しく買ったもの。けれど駒の置き方だけは、誰より丁寧だ。

「美空」

 村上が言う。

「紐は急ぐと切れる」

「知ってる」

 美空はむっとして言い返しながらも、指先の力を少し抜いた。

 カイトはその横顔を見て、心の奥がじんとする。

 美空が「知ってる」と言えることが、どれだけの時間の証か。

 玄関の方から、ドタドタと乱暴な足音が響いた。

 次に、甲高い声。

「うるせぇ! 触んな!」

 空気が一気に変わる。

 テラスにいた人の視線が、建物の中へ吸い寄せられる。結衣――今は主任になった彼女が、廊下の奥で誰かと向き合っているのが見えた。

 新しく来た少年だった。

 年は……十二か、十三。背は高いのに肩が内側に入っていて、目だけが妙に鋭い。腕を振り回し、壁を叩き、靴を蹴り飛ばす。髪が汗で額に貼りついている。焦げたような怒りの匂いが、距離があるのに伝わってくる。

「帰る! こんなとこ、帰る!」

 少年が叫ぶ。

「帰る場所なんてないくせに」

 誰かが小さく呟いたのが聞こえた。言ってはいけない言葉が、誤って口から落ちた音だった。

 少年の顔が歪む。

「あるんだよ!」

 叫び声が、壁に反射して刺さる。

「あるって言ってんだろ!」

 手近な椅子を掴み、持ち上げる。脚が床を擦り、嫌な音が鳴る。

 結衣が一歩前に出る。

「やめよう。危ない」

「危ないのは俺だろ!」

 少年の目が充血している。

「俺がいなきゃ、みんな平和なんだろ! 捨てればいいじゃん!」

 その言葉は、刃物だった。

 カイトの身体が勝手に動いた。

 テラスから廊下へ降りる階段を、二段飛ばしで駆ける。足裏に木の感触。手すりが冷たい。ラベンダーの匂いが、背中から離れていく。

「おい」

 カイトの声が、低く響く。

 少年が振り向く。椅子を持ち上げたまま、荒い呼吸。唾の匂いと、汗の酸っぱい匂い。

「誰だよ、お前」

「職員」

 カイトは真っ直ぐ歩く。近づきすぎない。距離を保つ。村上に叩き込まれた間合い。

「触るな!」

「触らない」

 カイトは両手を見せる。

「でも、椅子は下ろせ」

「嫌だ!」

「じゃあ、俺が受ける」

 カイトは一歩、前に出た。

「投げるなら、俺に投げろ」

 結衣が息を呑む音がする。

 美空が廊下の角に現れ、固まった。唇を噛んでいる。手のひらに提灯の紐が絡まったまま。

 少年の腕が震える。

「……なんでだよ」

 声が掠れる。

「俺のこと知らねえくせに」

「知らない」

 カイトは頷いた。

「だから、今から知る」

 少年の目が揺れる。

 その揺れが、カイトには痛いほどわかった。怒りの下にある恐怖。手放したら崩れるもの。支えがないから、暴れるしかない。

「お前ら、大人は」

 少年が叫ぶ。

「どうせいなくなる!」

 カイトは息を吸った。廊下の消毒液の匂いが肺に刺さる。心臓の音が耳に近い。

「いなくなる奴もいる」

 正直に言う。

「死ぬ奴もいる。出ていく奴もいる」

 少年の顔が歪む。

「ほら! やっぱりだ!」

「でも」

 カイトは声を落とした。

「ここは、残る」

 少年の手が止まる。

「残るって……」

「人が残る」

 カイトは言う。

「関わった時間が残る」

 一拍。

「お前が暴れたことも残る。泣いたことも残る。笑ったことも残る」

 少年の瞳の奥に、涙が浮かぶ。でもすぐに怒りで塗りつぶそうとする。

「……嘘だ」

「嘘じゃない」

 カイトは一歩、近づいた。

 椅子を持った腕が上がる。その瞬間、カイトは立ちはだかった。

 ただ、壁みたいに。

 けれど壁ではない。押し返さない。閉じ込めない。逃げ道を残す砦の立ち方。

「大丈夫だ」

 カイトが言う。

 声は強くない。でも揺れない。

「ここでは一人にしない」

 少年の腕が、ゆっくり下がる。

 椅子が床に置かれる。脚が木目を擦って、長い音を鳴らした。

 少年の肩が震える。

「……ほんとに?」

 細い声。

 カイトは頷く。

「ほんと」

 少年の目から、涙が落ちる。

 その涙は音もなく床に吸い込まれ、消毒液の匂いに混ざった。

 美空が一歩、前に出る。

「……私も、最初暴れた」

 突然の告白に、少年が顔を上げる。

「私、スプーン投げた」

「え」

「めっちゃ怒られた」

 美空は鼻をすすり、笑いそうな顔をする。

「でも、追い出されなかった」

 少年の唇が震える。

 結衣が、そっと近づく。

「名前、教えてくれる?」

 少年は目を擦り、荒い息を整える。

「……ソラ」

 絞り出すような声。

「ソラ、ね」

 結衣が頷く。

「今日は、空がきれいだよ」

 その言葉に、ソラが少しだけ目を上げる。窓の外の群青色が、廊下の白い壁に滲んでいる。

 村上が、廊下の奥から言った。

「将棋は指せるか」

 突然の声に、ソラが戸惑う。

「……は?」

「負けたら椅子は投げられん」

 村上は淡々と言う。

「勝ったら……」

 一拍。

「好きなだけ泣いていい」

 ソラが目を丸くする。

 カイトが笑ってしまう。

「村上さん、それ、条件おかしい」

「合理的だ」

 村上は譲らない。

「泣くのは体に良い」

 結衣が吹き出し、ソラが少しだけ口元を緩めた。

 その一瞬の緩みが、部屋の空気を変えた。

 テラスに戻ると、マジックアワーの色はもう少し濃くなっていた。ランタンの光が増え、木の床が柔らかい色に染まる。

 源三のベンチは、相変わらず同じ場所にある。

 背もたれの角は丸くなり、木目は磨かれて、触ると少しだけ滑らかだ。誰かが座り続けた痕が、そこにある。

 カイトが先に腰を下ろす。

 すぐ隣に、村上が座る。膝の上には将棋盤。駒袋が、布擦れの音を立てる。

 反対側に、美空が座る。制服のブレザーの袖が、少し短い。成長が早い。

 少し遅れて、ソラが来た。

 結衣に背中を押されるみたいに、ベンチの端にちょこんと座る。頬がまだ濡れている。けれど、逃げない。

 風が吹く。

 ラベンダーの香りが、四人の間を通る。

 遠くでハーモニカが、今度は外さずに、きれいな音を鳴らした。

「ここ」

 ソラが小さく言う。

「……ほんとに、残る?」

 カイトは空を見上げる。群青の奥に、一つ星が光っている。

「残す」

 短く言う。

 村上が駒を一つ摘まんで、盤の上に置く。コトリ。静かな音。

「時間は、選べる」

 村上が言う。

「お前がここにいる時間を、誰かが選ぶ。お前も誰かを選ぶ」

 美空が鼻をすすって言う。

「私、ここ選んだ」

「俺も」

 カイトが言う。

 結衣はベンチの後ろに立ち、三人の背中を見つめながら、小さく笑った。

 カイトはソラの方を見る。

「ソラ」

「……なに」

「明日、朝飯はパン派?」

「……わかんね」

「じゃあ、選べ」

 カイトは笑う。

「ここは、選べる場所だ」

 ソラが、ほんの少しだけ口角を上げる。

 それだけで、胸の奥が熱くなる。

 マジックアワーは短い。すぐに夜が来る。けれど灯りは増える。

 ベンチに座る三世代の影が、テラスの床に重なる。

 その影が、一本の線じゃなく、たくさんの線でできていることを、カイトは知っていた。

 真っ直ぐだけど、一本じゃない。重なって、強くなる。

 カイトは心の中で、源三に言った。

 見てるか、じいさん。
 まだ、続いてる。

 風が頬を撫でる。

 ラベンダーの匂いが、夜へ溶けていく。

 そして、最後に。

家族は血ではなく、選び続けた時間でできている。
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