Tantum Quintus

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1.Farewell to the Beginning

2:始まりの火種

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新延暦  506年 10月 某日
ネオラボラトリー内 ―メインルームAー

 薄暗い一室で白衣を纏った男女が、忙しなく手を動かしている。
あたり一面に投射されたディスプレイを見比べては、顔を険しくさせている。
そのうちディスプレイの半分は、赤いウィンドウでアラートを発していた。
 
「キョーコ!そっちはどうだ?」

切羽詰まった声をあげたのは、ラボの所長であるラトリーだった。
声は出しつつもディスプレイから目が離せず、手の動きも加速していく。

「だめっ!バックアップは取れたけど・・・
 そろそろユーキを脱出させないとまずいわ!」

同じように忙しなく手を動かし、返事をしたのは妻であるキョーコだった。
少し名残惜しそうにディスプレイから目を離し、
細い通路へ向かって駆け出した。
駆けだした通路の入口にはまだ幼い男の子、ユーキが立っていた。
幼いながらもその顔には、
ラトリーとキョーコのパーツがちらほらと垣間見える。

「ユーキ、大丈夫だからね、お母さんが守ってあげるからね」

「おかあさん、どうしてないてるの?」

言葉を掛けながら、少し涙目になっているユーキを優しく抱き上げた。
水滴がおちたユーキの顔に手を伸ばし、
人差し指でそれを拭うと力強くユーキを諭す。

「大丈夫、何でもないわ。さっ、ここは危ないから非難しましょう」

まだ3歳だ。現状を把握することなんてできない。
だが子供といえど、母の震える声と手。
笑顔なのに涙が溢れそうな瞳から、何かを察することはできた。
ただそれが何なのか。理解するには至らなかった。

「あなたっ!お願いね!」

そう言ってキョーコは夫の返事を待たず、
非常灯で薄暗く照らされる通路を走り出す。
わかっている、
ラトリーもキョーコも自分に与えられた役目を果たさなければならない。
そしてその先の結末も。


ドゴォン!!!


その轟音と共に瞬間、強烈な爆発がキョーコたちの後方で鳴り響く。
ラトリーの生体反応は・・・・確認するまでもなかった。

「あ、あなたあああぁぁ!!!」

悲痛な叫びは虚しく響き、
キョーコは愛する者を一人失ったのだと自覚させられる。
もちろん 個別通信チャネルで呼びかけてもいたが、
彼の生体反応が消失した今、その行動は虚しさに拍車をかけるだけだった。
子供を抱きかかえながら崩れ落ちる。
悲しみが彼女の膝を屈服させた。
無意識のうちにユーキを抱き抱える手に力が入る。
しかし彼は痛がらなかった。痛かったが泣かなかった。
力の入った、しかし震えるその手を、拒絶することはできなかった。
生まれて初めて見た、今にも悲しみに全てが飲み込まれそうな、
そんな母の表情。
ここで彼女の手を拒絶する事に、
幼いながらに違和感を感じていたのかもしれない。

キョーコは軽く深呼吸した。
まだあふれ出る涙は止まらない。
それでも今成すべきこと、自分の役目を忘れてはいけない。
悲しみに暮れることが今すべきことではないと、自分に言い聞かせる。
またそんな時間すらも惜しいのだと。
今は無意識に流れる涙をぬぐう一時すらも惜しい。

けたたましく鳴り響いた轟音と爆発の奥から、かすかな足音が聞こえてくる。
急がなくては。

「キョーコ!無事か!」

惨状を目の前に自分を呼ぶ声。
通路の奥から聞こえたその声に一瞬ビクついたキョーコだったが、
聞き覚えのある声だった。
振り向くと通路の奥にキョーコの良く知る顔が微かに見えた。
久しぶりの再会だった。兄のセイジだ。
キョーコはユーキを廊下に下ろすと、
今出来る精一杯の笑顔をユーキに向ける。

「いい?ユーキ、セイジ伯父さんの言うこと。
 ちゃんと聞いて言いつけ護るんだよ?」

涙は頬を伝い、タイルへと穿つ。
ユーキは今にも泣きそうな顔だったが小さく頷く。

「ミツコ・・・叔母さん・・・は、口は悪いけど・・・っ」

拭った涙はタイルを穿つのをやめ、替わりにに裾の色を濃くした。

「口は悪いけど・・・良い人だから・・・」

まだ幼い瞳から零れた涙は、力強く頷いた反動で頬に広がった。

「兄さん!先にユーキと一緒に脱出して!私も後から向かうから!」

言い終わる前にキョーコは、ユーキの背中をやさしく通路へ押し出す。
同時に脇にあったコンソールに手を伸ばす。

「あっ、おい!」
「私にはまだやらなきゃいけないことが残ってるから」

セイジはユーキの手を取るとキョーコに向かって叫んだ。

「な、何言っt・・・」

叫びきれなかった。
無意識のうちに彼女が何をしようとしているのか。
わかっていたのかもしれない。
ただその行動を受け入れようとする自分を否定したかった。
と同時に、彼女の決断に水を差そうとしている。
そんな自分が無意識に言葉を詰まらせた。

「ユーキの事、お願いね、兄さん」

彼女の頬を伝う涙を、容赦なく隔壁が消していく。
彼女に手を差し出す隙さえ与えず。

「おじさん、おかあさんは?」

セイジに質問したユーキだったが、今にも大声で泣きだしそうだった。
頭の良い子だがまだ3歳だ。もっともっと甘えたい年頃なのだ。
それでも泣くのを必死で我慢している彼は、
キョーコの行く末を理解しているのかもしれない。
そんなユーキから母親を取り上げてしまったセイジは、
自分の力の無さに、行き場のない憤りを感じていた。

ユーキの問いには答ず、素早く彼を背負うセイジ。
元々口数があっても語彙力に乏しいセイジだ。
ユーキを上手く諭す言葉は、残念ながら見つからなかった。

「落っこちないようにしっかりつかまってるんだぞっ!
 おじさんかけっこ得意なんだ」

自らをを鼓舞するような芯のある声だった。
駆け出した足音は走っていることを、
微塵も感じさせないほどに小さかった。
だがそのせいか、二人の啜る音は狭い通路に余計に響かせた。

《また会いましょう、ユーキ》

声の出所であろう母の姿は見えなかったが、
ユーキには確かに聞こえていた。
ユーキだけに聞こえていた。
もちろん今しがた閉じてしまった隔壁の先に、母がいたのは見ていた。
だけど、もしかしたら、そんな思いがユーキにはあった。

淡い期待に後ろを振り向いたユーキだったが、
隔壁は既にはるか向こうだった。
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