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トマークタスとジェイデン
しおりを挟むロシェルが私と共に暮らすようになり、一月が過ぎた。
目覚めてから眠るまで、私の用事がない限り一緒に過ごしている。
ロシェルは一月経っても、この離邸から出たいと言わなかった。自由を得た若い彼女なら、この環境に慣れれば飽き、外へ関心が向くと考えていたがロシェルは私の予想を裏切り、庭の散歩とピアノを弾くこと、そして刺繍と本を読むことしかしていない。
ロシェル宛の茶会、夜会の招待状は束になるほど送られているが私のところで止めている。
生家のアラント家ファミナ夫人から何通も届いているが封も開けずにブリアール公爵家の封筒に入れて送り返している。その意味を阿呆でなければ理解できる。そして束の中には腹の立つ手紙もあった。 ロシェルの元婚約者、エリック・ロイター子爵令息。
子爵家次男に生まれ、未来は伯爵になる運の良い青年が自ら陥れたロシェルになにを伝えたいのかと、私は勝手に読んだ。
一通目はロシェルの心境を懸念し、アラント伯爵夫妻が心配しているといったもの。二通目はあの夜の弁解だった。チュリナ・アラントの蛮行は知らなかった。ファミナ夫人の恐ろしい計画に気づくことができなかった。もう一度会いたい、話したい。
二通目のファミナ・アラントの計画云々は私が流した噂だ。自身の子であるチュリナ・アラントに伯爵家を継がせるためロシェルを陥れた。そんなことをお喋りな高位貴族家の夫人に囁けば、途端に広がった。皆が日常に飽き、他家の醜聞を嬉々と信じる。そのせいでファミナ夫人は茶会で言い訳をしなければならず、その言い訳も使用人たちからの情報と食い違い疑われる始末。
アラント邸にいる使用人からの情報では夫人は怒り心頭であり、愛娘にも声を上げているという。伯は夫人の状態を傍観するだけに留め、執務室に籠る日々らしい。
私はトマから渡された紙を畳み、優雅に流れる心地よいピアノの音に意識を戻す。
「信じられん」
「ん?」
「楽譜を見ていない」
「…ああ。ロシェルは先に楽譜を読んで覚える。鍵盤を見ながら弾くんだ」
「ジェイ、私は数多の奏者の音を聴いたが…これは…ロシェル嬢の音は…」
「ああ。私も同感だよ。本人にその自覚はないがロシェルは天才と言える」
「なんということだ。これは大劇場で弾けるな」
「トマ」
「…わかっている。人前には出さない…だな」
私はトマの言葉に頷きながらグランドピアノを弾くロシェルを見つめる。
集中すると何時間も弾く。私はそれに付き合うため、大きなソファを部屋に運ばせた。
ロシェルの奏でる旋律を聴きながら、細々とした仕事をこなし、報告書を読む日常。
「あのピアノをジェイに譲っては宝の持ち腐れと思ったがな」
「ピアノはロシェルに譲った」
トマが私に視線を向けたことに気づいていたが、ロシェルを見つめ続ける。
「ここから動かせんぞ」
「お前が悪戯などするから」
「ジェイも乗ったじゃないか」
「若かったな、あの頃は」
懐かしいものだ。ディオルドが学園に通っている頃など遠い記憶だな。
「ジェイ、ロシェル嬢に譲ることは構わないがトールボットに知られるな」
「わかっているさ。ロシェルには真実を話した」
「トールボットにあるのが贋作だと言ったのか?」
「し…」
少し声を上げたトマに人差し指を立てて静かにしろと伝える。
「ロシェルはただ困った顔をしただけだ。トマ、ロシェルは私たちの知る貴族令嬢とは…違う。なんというか…性質が純粋なんだ」
トマの表情が歪んだ。その意味はわかる。
「ジェイ、本気なんだな? ただの気紛れではないのか」
「ああ」
これだけ年の離れた女性に溺れている。ロシェルもトマと同じ考えを持っているだろう。私の気紛れ…哀れに思い…いつか飽きてしまえば…と。
「猫を被っているのかもしれない。ジェイ」
「心配か? トマ、私は頭まで病に侵されてはいない」
「ジェイ…」
「私は部屋を埋めるほどドレスを贈った。最高級の生地、最新のデザイン、数多の色で揃えた宝飾品。私の人生で女性にこれだけ金を使ったことは初めてだと言えるほど贈った。だが、ロシェルが一番喜んだのはブラウン夫人とピアノだ」
これだけあるなら新しく仕立てる必要はないですね、と並ぶドレスを前にロシェルは小さく呟いた。ふつうの貴族令嬢は毎月、新たなドレスを何着も仕立て周りと比べて優越に浸り、身を飾る。が、これ以上は必要ない、ロシェルはそんな風に考えるのだなと思った。
「ピアノもブルーンのものでなく、簡単に手に入るものでも喜んだろう。ロシェルはそれだけ欲がない」
穏やかな生活を楽しんでいる。この小さな鳥かごのなかで飛ぶことを願わずに与えられたものだけで幸せそうに微笑む。
「きっかけはロシェルの髪に視線を奪われたことだったが、瞳を知り彼女の憂いを見て…ふ…虜になった。今ならアスクレピアの気持ちが理解できる」
アスクレピア…私の妻…その名を口にすることも久しくなかった。彼女の肖像画は全て焼却したから、彼女の顔も記憶から薄れていた。
「恋か」
「そうだな。トマ、お前と同じくらい大切な存在だ」
「私と? ジェイ、私にはお前より大切なものなどないぞ。国よりお前が大切だ、くくく。私は数えきれないほど美姫を見てきたし話したが、どれも欲望の塊にしか見えなかった。美しく着飾り囀る塊にな」
「その美姫の中にお前の愛せる者がいなかった。それは残念に思う」
「…愛すか…何か変わるか?」
「ああ。目覚めたときから幸せのなかだ」
「惚気ているのか? ディオルドが聞いたら倒れるぞ、はは」
「それは邸が揺れるな。トマ、アプソをロシェルの近くに置くと?」
「ああ。あいつはブリアールに縁もあれば恩もある。そして私には大恩。逆らわずに従う。私に伝えることがあればアプソを使ってくれ」
アプソ…アスクレピアの息子であり、ディオルドの異父弟。この世に存在を許されない赤子が、今はトマの犬。そしてブリアールに来るか…人生とはわからないものだ。
「アプソも可哀想になぁ…少しでもアスクレピアの面影があれば美男の部類だったが…あんな細い目じゃあなぁ。美男と言えばアイザックだ。アイザック・シモンズ。アラント夫人はアイザックよりも顔が悪くてなぁ。くくくっ…兄と並びたくはないが兄の金で愛する男を手に入れたのだからな」
トマはよく喋る。特に当人たちには不快なことを楽しそうに。
「アラント伯は美男と言うほどでもないが…二人の接点は学園…」
「ああ。学園で夫人が伯に惚れた。当時の話でな、伯はロシェル嬢の母セレーナを人目も気にせず大事にしていたそうだ。親が決めた婚約者であっても二人は想い合った。周りの若者にはそんな姿が眩しく映ってしまった」
「自分もセレーナのように愛されたいと」
「思ってしまったんだろうなぁ。シモンズ子爵家の男は代々、金の亡者。家では妻も娘も妹であろうと金稼ぎの方が優先された。女とは金を産まずに浪費するしか能がない。それが先代のシモンズ子爵の口癖だった」
金でアラント伯爵家の妻におさまっても、伯の視線はこの世にいないセレーナへ向かい興味も示されなければ性根はさらに歪むか。
「馬鹿な女よなぁ。セレーナを責める対象にせず遺されたロシェル嬢を大切に育て、静かに伯に寄り添い困ったときに笑顔で金を渡していればなぁ。伯は蔑ろにはできんよなぁ…と考える頭がない。愛されたいなら自身を偽るくらいの覚悟を持てと…なぁ」
一方的な強い想いは、相手にとって狂気でしかない。それを理解せずに愛されたいからと感情を剥き出すは愚行。ふむ…私もか。私の想いをロシェルが狂気と思わぬよう気をつけよう。
「アイザック・シモンズ、私は奴に動いてほしくはない」
「アイザックが妹のために動くと思うか? 夫人の持参金の額を知っているか? 金貨八万だ。加えて水害被害融資に十万。私はもう助けんと思うがなぁ」
ブリアールに匹敵するほどの財を持つ子爵家。六十年近く生きた私でさえ、聞いたことがなかった。
「警戒に値する」
私の真剣な声にトマは顎髭を撫でながら思案している。
「アイザックには弱点がなかった。今まではな」
「エルマリア・シモンズか?」
「ああ。奴に親心が目覚めてしまった。なぜかわからんがなぁ…ああ…犬さえ入れられればなぁ…シモンズは堅すぎる」
トマはぶつぶつと言いながら懐に手を入れ、なにかを取り出し、私の膝に拳を置いた。
「…犬の情報の値段だ」
トマの拳が開くと私の膝に輝く石が転がった。私はそれをつまみ上げ、輝きを見つめる。
「フローレン侯爵領の鉱山の石か」
「当たりだ。初採掘で採れたなかの一番大きな石を加工して私にくれた」
その石は見たことがないほど透明度が高く、細かくカットされた面は加工技術の高さも伝えた。
「そんなに重要な情報だったのか?」
「いや。娘を連れ去った下男に似た者が民家に現れ馬を買った。ただそれだけだ」
不確かな情報に、あのアイザック・シモンズがこれほどの石を…
「トマ、アプソはフローレン侯爵家の内情に…」
「当主のソロモン・フローレンよりも内情に詳しいかもなぁ」
そう言ったトマは無言で手を後ろに向けて広げる。
クランバー近衛隊長が近づき、トマの手の平に書類を載せた。
「はは、トマ。もったいぶるような真似を」
その書類にはフローレン侯爵家の内情、そして下男と行方不明になったアイザック・シモンズの娘、エルマリア・シモンズについて詳しく書かれているだろう。
「私の知る情報。ジェイ、好きに使え」
「礼を言う」
「お前と私の仲、礼や謝罪は必要ないさ。お前は私の願いを聞いてくれた」
私は死ぬまで首都を、トマの近くを離れない。
トマのつまらない人生の拠り所が私だ。私はその気持ちを利用している。
ロシェルを近くに置くことが現実のものになると動き出したとき、トマの協力を得やすくする。そのために領地で静養すると口にすれば、友がどう思うかなど容易く理解できた。
私は元々、こういう人間なんだ。
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