【完結】ステージ上の《Attract》

コオリ

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第8章 決断のとき

38 失踪騒ぎ

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「数値は今回もかなりいいですね」
「そうだね。薬の量を減らしてもすごく安定してるし、舞台に立つのも何も問題ないと思うよ」

 今日は最終審査前、最後の診察だ。
 いつものように朝食前の時間に医務室を訪れた純嶺すみれは、一通りの検査を済ませて二人の話に耳を傾けていた。話しているのは合宿所の専属医として純嶺を診てくれている宮北みやきたと、その助手の城戸きどだ。
 三日前の検査でも数値はかなりよくなっていると聞かされていたが、今日の検査結果にも特に問題はない様子だった。
 二人の反応を見て、純嶺はほっと胸を撫で下ろす。
 最終審査は明後日が本番。
 ここで問題が出たとなれば、ステージに立つことは絶望的になってしまう。
 どうやら、その危機は免れたようだった。

「同室の春日之かすがのくんに相手をしてもらってるんだったよね」
「そう……ですね」
「ああ、ごめん。話しにくいことだよね。詳しくは聞かないから安心して」

 別に大層なプレイをしているわけではなかったが、医者とはいえ、プレイについて他人に踏み入られるのは、あまり気分のいいものではない。
 その気持ちが表情に出てしまっていたのだろう。
 先に宮北に謝られてしまった。

「そうやって欲求をコントロールできているのはいいことだよ。身近に頼れる人がいることもね」

 ウインクしながら、付け加えられる。
 それは純嶺も実際に体感してわかっていることだった。
 SubにはDomが必要だ。そしてDomもSubを必要としている。それはどちらも当たり前のことだったが、純嶺にとっては新たな発見のような気分だった。
 薬のおかげも、もちろんある。
 こうして宮北と城戸の支えがなければ、たった一ヶ月でここまで純嶺の数値がよくなることはなかっただろう。
 この二人には感謝してもしきれない。

芦谷あしやくん、他に気になることはないかな? 薬は足りてたよね?」
「大丈夫です」
「また何か気になることがあったら、すぐに相談して。僕でも城戸くんでも、いつでも聞くからね」
「ありがとうございました」

 笑顔で見送る宮北たちに一礼してから、純嶺は医務室を後にする。
 いつものように食堂に向かって歩き出し、廊下の角まできたところで、ふとジャージのポケットが妙に膨らんでいることに気づいた。

 ――あ、返すつもりだったのに。

 立ち止まって、ポケットに入っていたものを取り出す。
 純嶺の手の中にすっぽりと収まるペンに似た形のそれは、Sub特有の不安症の症状を抑える鎮静剤の入った注射器だった。緊急時のお守り代わりにと、前に宮北から手渡されたものだ。
 もう必要な場面はなさそうなので返そうと思っていたのに、そのまま忘れて医務室を出てきてしまった。

「戻るか……」

 くるりと反転し、来た道を戻る。
 数歩進んだところで、後ろから何者かに肩を掴まれた。

「おい、お前」
「……っ、真栄倉まえくら?」

 強い力で純嶺を引き止めたのは、真栄倉だった。
 どうやら廊下の角を曲がったところにいたらしい。全く気がついていなかった。
 純嶺は驚愕に目を見開くと同時に、少し焦る。

 ――医務室から出てくるところを見られたか?

 扉に近づかなければ、そこが医務室だということはわからなかったが、この廊下の奥にあるのはあの医務室だけだ。
 別に医務室を使うことはなんの問題もない。
 ただ純嶺がそこに通っている理由が理由なだけに、中で何をしていたのかと聞かれるのは、あまり都合がよくなかった。
 咄嗟に嘘がつけるタイプではないので、できるなら最初から触れてほしくない。

 ――でも、真栄倉はなぜここに?

 医務室はレッスンスタジオと同じ別棟の中にあったが、スタジオとは違い、かなり奥まったところにあった。
 この部屋に用のある人間以外は近づかないような場所だ。
 偶然、立ち寄ったとは考えづらい。
 純嶺は真栄倉に何を聞かれるのかとひやひやしていたが、真栄倉の関心は純嶺ではなく、医務室のほうにあるようだった。
 じっ、と廊下の奥へと視線を向けている。

「……ここでもなかったのか」

 小さな呟きの後、真栄倉の眉間にきゅっと皺が寄った。

 ――もしかして、誰かを探してるのか?

 今の発言は、そうとしか思えなかった。
 探している人物が医務室にいると当たりをつけて、ここまで来たのだろうか。
 真栄倉は考え込むように下を向いている。純嶺は黙って、その動向を窺っていた。

「…………くそッ、どこにいんだよ」

 やはり、誰か探しているのは間違いなさそうだ。
 真栄倉がこんなにも血相を変えて探す相手となると、純嶺もよく知っている人物である可能性が高い。

「誰を探してるんだ?」

 気になって、聞いてみた。
 真栄倉は純嶺が近くにいることを忘れていたのか、驚いたようにハッと顔を上げ、純嶺の顔を見る。
 しばらくして問いの意味を理解したようで、一瞬、躊躇うように視線を逸らした。
 すぐにもう一度、純嶺の顔を正面に捉える。

「…………蘭紗らんしゃだ」

 真栄倉の口から紡がれたのは、意外な人物の名前だった。

「……昨日の夜から、部屋に戻ってない」

 真栄倉が、ぽつぽつと言葉を続ける。
 不安がありありと伝わってくる声色に、純嶺は驚きつつも真剣に真栄倉の言葉に耳を傾けた。

「そういえば、二人は同室だったな」
「ああ……元々、俺が起きてる時間に部屋に戻ってくることは少なかったけど……昨日は夜中になっても戻ってこなくて」

 胸騒ぎでもしたのか、深夜二時頃に途中覚醒したときに気がついたらしい。
 蘭紗が部屋に戻ってきた様子もなければ、ベッドを使った形跡もなかったと話す真栄倉の声は小さく震えていた。

「そうやって、よく部屋を空けるタイプというわけではないんだな?」
「俺と同室になってからは初めてだ。前は……どうだったか、わからないけど」

 それなら心配して当然だろう。
 この合宿所の周囲に、夜を明かせる場所なんてない。
 レッスンスタジオも使用時間がきっちりと管理されているし、最後に思い当たった場所のがこの医務室だったのも頷ける。

「意見がどんなにぶつかったって、部屋に戻ってこないことなんかなかったし……つか、電話も通じないとか絶対おかしいだろ」

 何度も連絡してみようとしたのだろうか。
 スマホを見つめる真栄倉の横顔には不安と苛立ちが混ざったような、そんな複雑な表情が浮かんでいた。
 仲が悪いように見えた二人だが、どうやらそんなことはなかったらしい。

 ――そういえば、真栄倉はこんな性格だったな。

 ぶつかる相手が、必ずしも仲の悪い人間とは限らない。
 真栄倉にとって遠慮なく意見をぶつけられる相手というのは、信頼している人間でもあるのだろう。
 それにしても、周りを巻き込んでのあれはやりすぎだった気がしなくもないが――それだけ最終審査に向けて本気で取り組んでいたのだとしたら、真栄倉の性格なら考えられなくもない。

「……大丈夫か?」

 憔悴した様子の隠せない真栄倉に声を掛けたが、真栄倉は何も答えなかった。
 考えることに夢中で聞こえていないのかもしれない。
 純嶺は蘭紗に対していい印象を抱いていなかったが、特に恨みがあるわけでもない。所在がわからず、連絡も取れない相手に対して心配する気持ちは真栄倉と同じだった。
 しかし、力になれることはない。

「……一回、部屋に戻ってみる」

 いつになく覇気のない声で呟いた真栄倉の背中を、純嶺は黙って見送ることしかできなかった。


   ◇


「俺は逃げ出したって聞いたけど?」
「……蘭紗が?」
「なんか、そういうメッセージを受け取ったやつがいるって」

 午前中のレッスンを終え、純嶺はいつものようにせんと一緒に食堂に来ていた。
 蘭紗のことは特に騒ぎにはなっていなかったので無事に見つかったのだと思っていたが、どうやら話は違うようだった。
 手に持っていたフォークを皿の上に置いた染が、口元を拭きながら話を続ける。

「俺も銀弥ぎんやから聞いただけだけど」
「ん? オレがどうかした?」

 染が名前を出したタイミングで、ちょうど食事を終えたらしき銀弥が後ろを通りかかった。
 蘭紗のこと、と染が言葉を付け足すと「ああ」と言って頷きながら、純嶺たちのテーブルの空いた席に腰を下ろす。
 そっ、と顔を近づけてきた。

「……元々あのチーム、うまくいってる感じじゃなかっただろ? 特に蘭紗一人が浮いてるって感じで……そんな中で、どうもデカめの衝突があったらしい」
「それで……蘭紗が逃げ出したっていうのは本当なのか?」
「なんかそんな話だったな。探さないでください、的なメールがチームのメンバーに届いてたとかで」

 ――それは、本当なんだろうか。

 昨日までの純嶺なら、銀弥の言葉を信じていたかもしれない。
 でも、今はそう思えなかった。
 今朝の真栄倉の様子を見て、そんな風に思えるはずがない。

 ――そういえば、真栄倉は……?

 ぐるりと食堂内を見渡してみる。だが、真栄倉の姿を見つけることはできなかった。
 いつも真栄倉と一緒にいることの多い、田中やドラの姿も見当たらない。
 嫌な予感がした。

「どうした?」

 急に立ち上がった純嶺を、染が驚いた表情で見上げている。
 でも今は、うまく説明できる気がしない。

「……ちょっと、用事を思い出した」
 
 そう短く告げると、純嶺は食堂を後にした。




 いてもたってもいられず食堂から飛び出したものの、行くあてがあるわけではなかった。
 別棟に繋がる渡り廊下を早足で進んでいると、よく知った声が中庭のほうから聞こえてくる。

「おーちゃん、昼からは休んだほうがええんとちゃう?」
「顔色、悪すぎだよ」

 田中とドラだった。
 二人によって壁際に追い詰められているのは、真栄倉だ。ドラの言うとおり、その顔色は朝よりも格段に悪くなっていた。

「蘭紗くん、自分から出ていったって」
「そんなの、信じられるわけないだろ! あいつが他のやつらにだけ連絡して、俺にはしてこないなんて」
「……それは、おれも変やと思うけど」

 やはり、真栄倉は蘭紗が自分から逃げ出したとは信じていない様子だった。
 田中もどちらかといえば真栄倉寄りの意見のようだ。
 ドラはどうも判断がつかない様子だった。

「あ、スミレちゃん」

 そんな三人のほうに近づく。
 最初に純嶺に気づいたのはドラだった。

「まだ、見つかってないのか」
「……宿泊棟のどこにもいなかった。荷物も置きっぱなしだし、絶対に変だ」
「そうか」

 力なく首を横に振る真栄倉の肩を、田中が無言で支えてやっている。
 今にも蘭紗を探しに駆け出してしまいそうな真栄倉を、この場に留めようとしているようにも見えた。

「あと、探してないのは?」
「……お前は、蘭紗が自分の意思で逃げたと思ってないのか?」
「お前のそんな様子を見て、そう思うわけないだろ」

 純嶺の言葉に、真栄倉はぴたりと動きを止めた。
 見開いた目が真っ赤に充血している。反対に顔色は真っ白だ。
 かなり気落ちしているのがわかる。田中の言うとおり、少し休ませたほうがよさそうだった。

「おれも探してみる」
「せやな、純嶺サンとおれで手分けしよか。ドラちゃんはおーちゃんを部屋に送ってってくれへんかな」
「オレは、いいけど……」
「部屋には戻らない。俺も探しに行く」

 頷きかけたドラを遮るように真栄倉がそう言って、こちらに一歩踏み出す。
 だがその身体は、田中によって押し戻された。

「あほ言うなや、桜聖おうせい。お前にまでなんかあったら、どないすんねん」

 いつもより低い声で怒ってみせた田中に、真栄倉がびくりと身をすくめる。力が抜けてしまったのか、壁にもたれたまま、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
 放心状態の真栄倉に駆け寄ったドラが、心配そうな表情を浮かべて純嶺たちのほうを見上げる。

「……スミレちゃん、田中くん。二人とも、お昼からの練習はどうするの?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないからな」
「言うても、探しに行ける範囲は限られとうしな。すぐに戻るって。んじゃ、純嶺サンは合宿所の北側頼んでええ? おれは南のほう見てくるわ」
「ああ」

 さっき見せた怒りが嘘のように、田中はいつもの調子に戻っていた。
 合宿所の北側といえば、染と朝のランニングで走っている辺りだ。あそこならば、コース沿いの地図はしっかり頭に入っている。
 気をつけて、と叫ぶドラの声を背中に聞きながら、純嶺は蘭紗の捜索へと駆け出した。
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