魔王の贄は黒い狐に愛される

コオリ

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04 紫紺の瞳

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「わぁ……ッ!」

 アロイヴは驚きのあまり、尻もちをついてしまった。
 それでも、首に纏わりついたものは離れない。
 肩にずっしりとした重さを感じる。
 アロイヴの視界の端で揺れていたのは、さっきベッドの隙間から覗いていた長い尻尾だった。

「え、え? もしかして……君がさっき、窓から入ってきた子?」

 獣に言葉が通じると思っているわけではないが、アロイヴはまたしても獣に話しかけていた。
 アロイヴを覗き込んでいたのは、真っ黒な獣だった。
 顔は狐とよく似ている。大きな三角耳をぴくぴく動かしながら、アロイヴのことを観察するように、深みのある紫色の瞳をこちらに向けている。体はイタチのように長く柔軟で、そのおかげでしなやかな動作ができるようだ。
 賢そうな獣だというのが、アロイヴの第一印象だった。

「ねえ……触ってもいい?」

 首に触れている柔らかな感触を、手でも味わってみたい。
 一応断ってから、おそるおそる手を近づけると、獣のほうからアロイヴの手に頭を擦り寄せてきた。
 耳の根元を指先でくすぐってやると、獣はうっとりとした様子で目を細める。

「可愛い……」

 この世界にも、こんなに可愛らしい生き物がいたなんて。
 アロイヴの呟きに反応するように、獣が上目遣いでこちらを見た。部屋の明かりを反射して煌めく瞳は、やはり宝石のようだ。

「ねえ……君、名前はあるの? ないなら、僕がつけてもいい?」

 そんなはずがあるわけないのに、獣がこくんと頷いたように見えた。
 顎の下を掻いてやると、今度は嬉しそうに喉を鳴らしている。

「――紫紺しこん。君のことは、紫紺って呼ぶね」

 由来は瞳の色から……それと、姿が狐に似ていたからだ。「コン」という響きが、この獣にぴったりだと思った。
 きゅうっと紫紺が甘えた声で鳴く。
 名前が気に入ったと言わんばかりに、アロイヴの頬に体を擦り寄せた。


   ◆


 ベッドに寝そべって紫紺を撫でているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 朝になると、紫紺は姿を消していた。
 窓が少し開いていたので、そこから出ていったのだろう。
 あの獣は、また会いに来てくれるだろうか。

 アロイヴはいつもの時間に食堂で朝食を済ますと、その足で書庫を訪れていた。
 この書庫は何年か前にこの屋敷で暮らしていた生贄の少年が、神父にお願いして作ってもらったもので、今では誰でも自由に使っていいことになっていた。

「やっぱり、ないか」

 この書庫には前にも来たことがある。
 そのときに見かけた記憶がなかったので、あまり期待はしていなかったが、やはりアロイヴの目当ての本はここにはなかった。

「何かお探しの本があるんですか?」

 隣から話しかけてきたのは、ケイだ。
 世話係とはいえ、アロイヴが呼ばない限り、傍にいる必要はないのに、ケイはアロイヴが「一人にしてほしい」と頼まない限り、できるだけ傍にいてくれようとする。
 最初は監視目的かと思ったが、そういうわけではなく、時々不安定になってしまうアロイヴを心配してくれているだけのようだった。

「獣のことが知りたいんだけど」
「獣? それは〈魔獣〉のことでしょうか」

 どうやら、この世界に住む獣はすべて魔獣と呼ばれるらしい。
 問いに頷いたアロイヴを見て、ケイが眉間にうっすら皺を寄せ、難しい表情を浮かべる。

「そうですね。魔獣のことが書かれた本となると、手に入れるのは難しいと思います。魔族の管理している書物になるので」
「あ、そっか……」

 魔獣は、魔族と関係の深い生き物だ。
 それについて詳しく書かれた本を読みたいなんて言えば、魔族から危険因子扱いされても文句は言えない。

 ――紫紺のことが知りたいだけなんだけどなぁ。

 紫紺がなんという生き物なのか。
 好きな食べ物はなんなのか。
 アロイヴが知りたい情報はそのぐらいのことなのに。

 ――なかなか、うまくいかないみたいだ。

 諦めきれずに考え込んでいると、隣でケイが「それでしたら」と口を開いた。

「私の部屋にいいものがあります」
「ケイの部屋に?」
「はい。情報が少し古いかもしれませんが、それでもよろしければ見に来られますか?」
「行く!」

 即答したアロイヴを見て、ケイが柔らかく目を細めた。



 ――ケイの部屋、入るの初めてだ。

 世話係の部屋は、屋敷の二階の奥にあった。
 世話係にもそれぞれ個室が与えられているが、生贄の称号を持つアロイヴたちの部屋に比べるとかなり狭い。
 窓がないせいで薄暗かったが、ケイの部屋はきちんと片付けられているおかげで、そこまで居心地は悪くなかった。

「こちらの本です」
「え……すごい。これ、もしかして全部手書き?」

 ケイが見せてくれたのは、古い手書きの書物だった。
 長い年月、大切にされてきたのが一目でわかる代物だ。
 それに多くの人の手を渡ってきたものなのだろう。表紙の下半分には何人もの名前が刻まれていた。

「これは?」
「私の一族に伝わる書物です。私は南の大陸の出身なので、この国とは少し違う文化で育ったんですよ」

 ケイは懐かしそうに目を伏せながら、表紙に書かれた名前の一つに指を滑らせる。
 ケイの血縁者の名前だろうか。

「エイ?」
「アロイヴ様は南の文字が読めるのですか?」
「あ……えっと、少しだけ」
「やはり、アロイヴ様は博識ですね。このエイというのは、私の父の名です」

 文字が読めたのは翻訳能力のおかげだったが、その力のことはケイにも明かしていない。
 曖昧に誤魔化したアロイヴをケイは全く疑っていないらしく、テーブルに置いた本のページをぱらりと捲った。

「私は狩猟民族の生き残りなんです。狩猟の技をきちんと受け継ぐ前に、一族は私を残して皆いなくなってしまいましたが、これだけは持ってくることができました」
「これは……狩った魔獣の記録?」
「はい」
「こんなの、魔族の人に見つかったら問題になるんじゃ」
「そうですね。だから、これまでずっと隠してきました。神父様もこの本のことは知りません。この存在を知っているのは、私とアロイヴ様だけです」

 ケイは穏やかな声でそう言いながら、本をアロイヴが見やすい位置に置き直した。

「そんな大切なものを、僕に見せてよかったの?」
「アロイヴ様ならば、と。秘密は絶対に守ってくださるでしょう?」
「守るけど……でも」

 自分は、秘密をケイには何も明かしていない。
 それなのに、こんな大切なものを見せてくれるなんて――返せるものがあるわけじゃないのに。

「私はアロイヴ様のおかげで、とてもいい生活ができていますからね。ここだけの話、他の世話係よりもお給金がいいんですよ」
「え? そうなの? いや、でも……それはケイがちゃんと仕事をしてるだけで」
「そういうところですよ。アロイヴ様は他の生贄様とどこか違います。危ういところもあるけれど、それだけじゃない何かがありますから……私はアロイヴ様のそんなところに惹かれるんだと思います」

 六年以上の間、誰よりもアロイヴの近くにいたケイは、何かに気づいているのかもしれなかった。
 はっきりと口にしたわけではなかったが、その表情が物語っている。
 アロイヴのことを本人もわかっていないことまで理解しようとし、寄り添おうとしてくれるケイの心遣いにあたたかい気持ちになる。

「すみません、関係のない話でしたね。アロイヴ様の探していることが、ここに書いてあるといいのですが」
「関係なくなんかないよ。ケイが思ってることを聞けてよかった」

 ――こんな風に、僕を見てくれている人がいたなんて。

 誰も、自分の気持ちなど考えてくれないと思っていた。
 生贄は魔族に捧げるためだけの、ただの道具や餌だと思われているのだと、そう思って諦めていたのに。
 たった一人でも、自分を理解しようとしてくれた人が傍にいてくれたことが嬉しかった。
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