紅葉-くれは-

菊池まりな

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第1話 秋祭りの夜

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その夜、町は赤かった。
 秋祭りの提灯が、風に揺れては朱の影を地面に落とす。灯りに照らされた顔は皆どこか異様で、楽しげに笑うはずの表情が、まるで血に濡れた仮面のように見える。

 太鼓と笛の音が夜空を震わせる中、少女・くれはは母と一緒に参道を歩いていた。
 人混みに押されながらも、晴香の手をしっかり握り、背伸びをしては屋台の明かりを覗き込む。焼きそばの匂い、綿菓子の甘い香り──そのすべてが祭りのはずだった。

 だが、不意に耳の奥をかすめた囁きがあった。

 ──くれは。

 自分の名前。
 思わず足を止め、振り返る。

 人混みの向こうに、誰かが立っていた気がした。
 影。いや、ただの錯覚だろうか。見ようとした瞬間にはもう、そこには誰もいなかった。

 「どうしたの?」
 晴香が振り返る。
 「……ううん」
 くれはは小さく首を振った。

 再び歩き出すが、胸の奥でざわめきが広がる。耳の奥には、まだ残響のように声がこびりついていた。

 参道の石段を登りきったところで、屋台の灯りが途切れた。人の声が背後に遠のき、木々の影が濃くなっていく。

 風に舞う葉が、ひらりと頬をかすめた。

 赤い。

 くれはは目を見張った。
 まだ紅葉には早すぎる時期だ。それなのに、その葉はまるで血を塗り広げたような鮮烈な朱を放っている。

 指先でそっと触れる。冷たい。
 だが落ち葉特有の乾きはなく、肌にぴたりと張り付く感触があった。慌てて払い落とすと、頬に赤い筋が残っていた。

 血──?

 心臓が一度、大きく跳ねた。
 慌てて辺りを見回すが、母の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。

 「お母さん……?」

 囁くように呼んでも、返事はない。代わりに、再び声が聞こえた。

 ──くれは。おいで。

 背筋が凍る。
 その声は、確かに自分を呼んでいた。

 参道の奥、闇に沈む森の入口が見えた。
 黒々とした木々の隙間が口のように開き、風にざわめく。幹と幹の間からは、誰かの顔が覗いている気がした。

 次の瞬間、くれはの足は勝手に動いていた。



 森の中は、祭りの音が嘘のように消えていた。
 聞こえるのは風の音と、葉がこすれるざわめきだけ。いや、それは人の囁き声に近かった。

 ──かえれ。
 ──おいで。
 ──ここに。

 誰の声ともつかぬ声が、幾重にも重なって森全体から響いてくる。

 足元でぐしゃりと音がした。
 見下ろすと、落ち葉を踏んだはずの足跡が、赤黒い液を滲ませていた。まるで肉を踏み潰したような音と感触。

 「……いやだ……」
 くれはは後ずさる。だがその背に、ひやりとした何かが触れた。

 振り向いた。
 そこには木の幹。──だが、ただの幹ではなかった。

 幹に浮かび上がったように、人の顔があった。
 目は閉じている。だが口だけが大きく裂け、そこから赤い葉がぞろぞろとあふれ出す。葉は地面に落ちるたび、血のような液を滴らせていく。

 「……!」

 喉から声が出ない。背筋が冷たく凍りつき、足が震える。
 幹の顔が、ゆっくりと目を開いた。

 黒い瞳孔がこちらを見た瞬間、くれはは悲鳴を上げて駆け出した。



 枝が顔を掠め、赤い葉が降り注ぐ。
 葉はただ舞うのではない。彼女の体に吸いつき、皮膚に張りついて血管をなぞるように走っていく。

 必死に剥がそうとしても、葉脈が生き物のように指に絡みつき、爪の間に食い込んだ。痛みが走る。血が滲む。

 涙で滲む視界の奥、さらに奥へと進んでしまっている自分に気づく。
 祭りの灯りはもう見えない。戻れない。

 ──くれは。

 囁き声が耳元で重なる。
 右から、左から、頭上から。気配は四方八方に広がり、まるで森そのものが名を呼んでいるようだった。

 「お母さん……!」

 叫んだ瞬間、地面が崩れた。
 いや、葉が積もっていたのだ。無数の赤い葉が彼女の足を呑み込み、膝まで、腰まで絡みついていく。

 必死にもがくが、葉はどこまでも深く沈めていく。
 視界が赤に閉ざされ、息が苦しくなる。

 ──おかえり。

 最後に聞こえたのは、母の声だった。
 くれはの体は、葉に呑まれ、闇に消えた。



 賑やかな祭りの広場。
 春香は人混みをかき分け、必死に娘を探していた。

 「くれは? どこにいるの、くれは!」

 だが誰も気づかない。人々は太鼓に合わせて踊り、酒を酌み交わし、笑い声を響かせる。母の焦りなど、祭りの喧噪に紛れて誰の耳にも届かなかった。

 参道の石段に、一枚の葉が落ちていた。

 春香は足を止め、それを拾い上げる。
 濡れたように艶めき、まるで血を吸ったような赤。

 その葉を胸に押し当てると、晴香の肩が細かく震えた。
 顔は青ざめ、唇は何かを呟いている。

 ──また始まってしまった。

 瞳には、誰よりも深い恐怖が映っていた。
 二十年前、あの夜と同じように。

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