2 / 155
第1話 秋祭りの夜
しおりを挟む
その夜、町は赤かった。
秋祭りの提灯が、風に揺れては朱の影を地面に落とす。灯りに照らされた顔は皆どこか異様で、楽しげに笑うはずの表情が、まるで血に濡れた仮面のように見える。
太鼓と笛の音が夜空を震わせる中、少女・くれはは母と一緒に参道を歩いていた。
人混みに押されながらも、晴香の手をしっかり握り、背伸びをしては屋台の明かりを覗き込む。焼きそばの匂い、綿菓子の甘い香り──そのすべてが祭りのはずだった。
だが、不意に耳の奥をかすめた囁きがあった。
──くれは。
自分の名前。
思わず足を止め、振り返る。
人混みの向こうに、誰かが立っていた気がした。
影。いや、ただの錯覚だろうか。見ようとした瞬間にはもう、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
晴香が振り返る。
「……ううん」
くれはは小さく首を振った。
再び歩き出すが、胸の奥でざわめきが広がる。耳の奥には、まだ残響のように声がこびりついていた。
参道の石段を登りきったところで、屋台の灯りが途切れた。人の声が背後に遠のき、木々の影が濃くなっていく。
風に舞う葉が、ひらりと頬をかすめた。
赤い。
くれはは目を見張った。
まだ紅葉には早すぎる時期だ。それなのに、その葉はまるで血を塗り広げたような鮮烈な朱を放っている。
指先でそっと触れる。冷たい。
だが落ち葉特有の乾きはなく、肌にぴたりと張り付く感触があった。慌てて払い落とすと、頬に赤い筋が残っていた。
血──?
心臓が一度、大きく跳ねた。
慌てて辺りを見回すが、母の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
「お母さん……?」
囁くように呼んでも、返事はない。代わりに、再び声が聞こえた。
──くれは。おいで。
背筋が凍る。
その声は、確かに自分を呼んでいた。
参道の奥、闇に沈む森の入口が見えた。
黒々とした木々の隙間が口のように開き、風にざわめく。幹と幹の間からは、誰かの顔が覗いている気がした。
次の瞬間、くれはの足は勝手に動いていた。
森の中は、祭りの音が嘘のように消えていた。
聞こえるのは風の音と、葉がこすれるざわめきだけ。いや、それは人の囁き声に近かった。
──かえれ。
──おいで。
──ここに。
誰の声ともつかぬ声が、幾重にも重なって森全体から響いてくる。
足元でぐしゃりと音がした。
見下ろすと、落ち葉を踏んだはずの足跡が、赤黒い液を滲ませていた。まるで肉を踏み潰したような音と感触。
「……いやだ……」
くれはは後ずさる。だがその背に、ひやりとした何かが触れた。
振り向いた。
そこには木の幹。──だが、ただの幹ではなかった。
幹に浮かび上がったように、人の顔があった。
目は閉じている。だが口だけが大きく裂け、そこから赤い葉がぞろぞろとあふれ出す。葉は地面に落ちるたび、血のような液を滴らせていく。
「……!」
喉から声が出ない。背筋が冷たく凍りつき、足が震える。
幹の顔が、ゆっくりと目を開いた。
黒い瞳孔がこちらを見た瞬間、くれはは悲鳴を上げて駆け出した。
枝が顔を掠め、赤い葉が降り注ぐ。
葉はただ舞うのではない。彼女の体に吸いつき、皮膚に張りついて血管をなぞるように走っていく。
必死に剥がそうとしても、葉脈が生き物のように指に絡みつき、爪の間に食い込んだ。痛みが走る。血が滲む。
涙で滲む視界の奥、さらに奥へと進んでしまっている自分に気づく。
祭りの灯りはもう見えない。戻れない。
──くれは。
囁き声が耳元で重なる。
右から、左から、頭上から。気配は四方八方に広がり、まるで森そのものが名を呼んでいるようだった。
「お母さん……!」
叫んだ瞬間、地面が崩れた。
いや、葉が積もっていたのだ。無数の赤い葉が彼女の足を呑み込み、膝まで、腰まで絡みついていく。
必死にもがくが、葉はどこまでも深く沈めていく。
視界が赤に閉ざされ、息が苦しくなる。
──おかえり。
最後に聞こえたのは、母の声だった。
くれはの体は、葉に呑まれ、闇に消えた。
賑やかな祭りの広場。
春香は人混みをかき分け、必死に娘を探していた。
「くれは? どこにいるの、くれは!」
だが誰も気づかない。人々は太鼓に合わせて踊り、酒を酌み交わし、笑い声を響かせる。母の焦りなど、祭りの喧噪に紛れて誰の耳にも届かなかった。
参道の石段に、一枚の葉が落ちていた。
春香は足を止め、それを拾い上げる。
濡れたように艶めき、まるで血を吸ったような赤。
その葉を胸に押し当てると、晴香の肩が細かく震えた。
顔は青ざめ、唇は何かを呟いている。
──また始まってしまった。
瞳には、誰よりも深い恐怖が映っていた。
二十年前、あの夜と同じように。
秋祭りの提灯が、風に揺れては朱の影を地面に落とす。灯りに照らされた顔は皆どこか異様で、楽しげに笑うはずの表情が、まるで血に濡れた仮面のように見える。
太鼓と笛の音が夜空を震わせる中、少女・くれはは母と一緒に参道を歩いていた。
人混みに押されながらも、晴香の手をしっかり握り、背伸びをしては屋台の明かりを覗き込む。焼きそばの匂い、綿菓子の甘い香り──そのすべてが祭りのはずだった。
だが、不意に耳の奥をかすめた囁きがあった。
──くれは。
自分の名前。
思わず足を止め、振り返る。
人混みの向こうに、誰かが立っていた気がした。
影。いや、ただの錯覚だろうか。見ようとした瞬間にはもう、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
晴香が振り返る。
「……ううん」
くれはは小さく首を振った。
再び歩き出すが、胸の奥でざわめきが広がる。耳の奥には、まだ残響のように声がこびりついていた。
参道の石段を登りきったところで、屋台の灯りが途切れた。人の声が背後に遠のき、木々の影が濃くなっていく。
風に舞う葉が、ひらりと頬をかすめた。
赤い。
くれはは目を見張った。
まだ紅葉には早すぎる時期だ。それなのに、その葉はまるで血を塗り広げたような鮮烈な朱を放っている。
指先でそっと触れる。冷たい。
だが落ち葉特有の乾きはなく、肌にぴたりと張り付く感触があった。慌てて払い落とすと、頬に赤い筋が残っていた。
血──?
心臓が一度、大きく跳ねた。
慌てて辺りを見回すが、母の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
「お母さん……?」
囁くように呼んでも、返事はない。代わりに、再び声が聞こえた。
──くれは。おいで。
背筋が凍る。
その声は、確かに自分を呼んでいた。
参道の奥、闇に沈む森の入口が見えた。
黒々とした木々の隙間が口のように開き、風にざわめく。幹と幹の間からは、誰かの顔が覗いている気がした。
次の瞬間、くれはの足は勝手に動いていた。
森の中は、祭りの音が嘘のように消えていた。
聞こえるのは風の音と、葉がこすれるざわめきだけ。いや、それは人の囁き声に近かった。
──かえれ。
──おいで。
──ここに。
誰の声ともつかぬ声が、幾重にも重なって森全体から響いてくる。
足元でぐしゃりと音がした。
見下ろすと、落ち葉を踏んだはずの足跡が、赤黒い液を滲ませていた。まるで肉を踏み潰したような音と感触。
「……いやだ……」
くれはは後ずさる。だがその背に、ひやりとした何かが触れた。
振り向いた。
そこには木の幹。──だが、ただの幹ではなかった。
幹に浮かび上がったように、人の顔があった。
目は閉じている。だが口だけが大きく裂け、そこから赤い葉がぞろぞろとあふれ出す。葉は地面に落ちるたび、血のような液を滴らせていく。
「……!」
喉から声が出ない。背筋が冷たく凍りつき、足が震える。
幹の顔が、ゆっくりと目を開いた。
黒い瞳孔がこちらを見た瞬間、くれはは悲鳴を上げて駆け出した。
枝が顔を掠め、赤い葉が降り注ぐ。
葉はただ舞うのではない。彼女の体に吸いつき、皮膚に張りついて血管をなぞるように走っていく。
必死に剥がそうとしても、葉脈が生き物のように指に絡みつき、爪の間に食い込んだ。痛みが走る。血が滲む。
涙で滲む視界の奥、さらに奥へと進んでしまっている自分に気づく。
祭りの灯りはもう見えない。戻れない。
──くれは。
囁き声が耳元で重なる。
右から、左から、頭上から。気配は四方八方に広がり、まるで森そのものが名を呼んでいるようだった。
「お母さん……!」
叫んだ瞬間、地面が崩れた。
いや、葉が積もっていたのだ。無数の赤い葉が彼女の足を呑み込み、膝まで、腰まで絡みついていく。
必死にもがくが、葉はどこまでも深く沈めていく。
視界が赤に閉ざされ、息が苦しくなる。
──おかえり。
最後に聞こえたのは、母の声だった。
くれはの体は、葉に呑まれ、闇に消えた。
賑やかな祭りの広場。
春香は人混みをかき分け、必死に娘を探していた。
「くれは? どこにいるの、くれは!」
だが誰も気づかない。人々は太鼓に合わせて踊り、酒を酌み交わし、笑い声を響かせる。母の焦りなど、祭りの喧噪に紛れて誰の耳にも届かなかった。
参道の石段に、一枚の葉が落ちていた。
春香は足を止め、それを拾い上げる。
濡れたように艶めき、まるで血を吸ったような赤。
その葉を胸に押し当てると、晴香の肩が細かく震えた。
顔は青ざめ、唇は何かを呟いている。
──また始まってしまった。
瞳には、誰よりも深い恐怖が映っていた。
二十年前、あの夜と同じように。
4
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる