3 / 155
第2話 赤い葉を持つ女
しおりを挟む
祭りの灯りが消えていくのを、春香はただ呆然と見つめていた。
人混みに飲み込まれたはずの娘の姿は、どこにもない。
「くれは……!」
喉が裂けるほど叫んでも、太鼓の音がすべてをかき消した。返事はない。
ただ一枚、足元に落ちていた赤い葉だけが、残酷に答えていた。
警察が出動したのは、それから一時間後のことだった。
境内に設けられた臨時の詰所には、祭り帰りの人々が心配そうに集まり、ざわめきが途絶えない。
誰もが口を揃えて「少女は急にいなくなった」と言う。
祭りの喧噪の最中に忽然と消えた。目撃者はいない。
春香の説明は、動揺に満ちていて要領を得なかった。
「参道を歩いていたんです。ほんの少し目を離したら……赤い葉が……」
そこで声が詰まる。握りしめた手の中、血のような葉がまだ湿り気を帯びていた。
警察官たちは顔を見合わせ、困惑気味に母親を宥める。
その場に現れたのが、刑事の一ノ瀬祐真だった。
二十八歳。若さは残るが、どこか擦れたような目をしている。
無精ひげに整っていない髪、着古したスーツ。まだ若いはずなのに、年齢以上の疲れを纏っていた。
都会から数か月前に赴任してきたばかりで、この山間の町には馴染んでいない。
「失踪、ね」
報告を受けた祐真は、疲れたように煙草を探した。だが祭りの会場では吸えず、舌打ちを呑み込む。
「年端もいかない子供が夜に消えた。真っ先に考えるのは事故か誘拐だ。……だが、あんたは違う顔をしてるな」
祐真は春香に向き直った。
彼女の手の中にある葉に、ふと目を止める。
「それは……落ち葉か?」
「……いいえ。違います。これは……あの森のものです」
春香の声は震えていた。
「森?」
「……“紅葉ヶ森”。」
その名を口にした瞬間、近くの町の人々がざわついた。口を閉ざす者もいれば、露骨に顔を歪める者もいる。
その反応に、祐真は眉をひそめた。
「何だ、それは?」
「言わないほうが……。刑事さん、あなたは知らないんです、この町で何があったか」
春香は言葉を飲み込み、唇を噛む。涙が頬を伝う。
祐真はその夜、森の入り口へ足を運んだ。
参道の先、屋台の灯りが途切れた闇に、大木が影のように並んでいる。
風が吹くたび、葉がざわめき、赤黒い影を揺らした。
足元に一枚、赤い葉が落ちていた。
拾い上げると、指先にぬめりが残った。
血のような臭いが鼻を刺す。
「……気のせいだろ」
呟いたその背後から、声がした。
──くれは。
振り返る。誰もいない。
森の闇だけが、口を開けたようにぽっかりと広がっていた。
翌朝。
町は一夜にして緊張に包まれていた。
「またか」「やっぱり二十年ぶりに……」そんな噂が広まり、人々は家の戸を固く閉ざす。
祐真は町役場に呼ばれた。
応接室で待っていたのは、地元の古い寺の住職・古沢透だった。
白髪交じりの僧衣の男は、彼を睨むように言った。
「刑事さん、森を調べるのはおやめなさい。
あそこは、人が入ってよい場所ではない」
祐真は鼻で笑った。
「オカルトは信じないんでね。失踪した子供がいるんだ。手がかりがあるなら教えてもらおう」
住職は黙り込み、やがて低い声で告げた。
「二十年前にも、同じことがあったのです。……祭りの夜に、娘がひとり消えた」
その言葉が、祐真の背を冷たく撫でた。
彼は一度、赤い葉を思い出し、無意識に指先をこすった。まだあのぬめりの感触が残っている気がする。
「刑事さん。森に呼ばれた者は、決して戻りません」
その忠告を聞きながらも、祐真の心は決まっていた。
──自分の目で確かめなければならない。
夜。
祐真は懐中電灯を手に、再び森の入り口に立った。
葉擦れの音が人の囁きに変わる。
──かえれ。
──おいで。
光の輪の中で、幹の表面に浮かぶものがあった。
人の顔。閉じた目、口元。
その口から、赤い葉がひらりとこぼれ落ちた。
祐真の手が汗で濡れる。
だが目は逸らさない。
「くれは……どこにいる」
その瞬間、森の奥から少女の声が返った。
──ここだよ。
祐真の背筋に、氷の刃が突き立つような感覚が走った。
人混みに飲み込まれたはずの娘の姿は、どこにもない。
「くれは……!」
喉が裂けるほど叫んでも、太鼓の音がすべてをかき消した。返事はない。
ただ一枚、足元に落ちていた赤い葉だけが、残酷に答えていた。
警察が出動したのは、それから一時間後のことだった。
境内に設けられた臨時の詰所には、祭り帰りの人々が心配そうに集まり、ざわめきが途絶えない。
誰もが口を揃えて「少女は急にいなくなった」と言う。
祭りの喧噪の最中に忽然と消えた。目撃者はいない。
春香の説明は、動揺に満ちていて要領を得なかった。
「参道を歩いていたんです。ほんの少し目を離したら……赤い葉が……」
そこで声が詰まる。握りしめた手の中、血のような葉がまだ湿り気を帯びていた。
警察官たちは顔を見合わせ、困惑気味に母親を宥める。
その場に現れたのが、刑事の一ノ瀬祐真だった。
二十八歳。若さは残るが、どこか擦れたような目をしている。
無精ひげに整っていない髪、着古したスーツ。まだ若いはずなのに、年齢以上の疲れを纏っていた。
都会から数か月前に赴任してきたばかりで、この山間の町には馴染んでいない。
「失踪、ね」
報告を受けた祐真は、疲れたように煙草を探した。だが祭りの会場では吸えず、舌打ちを呑み込む。
「年端もいかない子供が夜に消えた。真っ先に考えるのは事故か誘拐だ。……だが、あんたは違う顔をしてるな」
祐真は春香に向き直った。
彼女の手の中にある葉に、ふと目を止める。
「それは……落ち葉か?」
「……いいえ。違います。これは……あの森のものです」
春香の声は震えていた。
「森?」
「……“紅葉ヶ森”。」
その名を口にした瞬間、近くの町の人々がざわついた。口を閉ざす者もいれば、露骨に顔を歪める者もいる。
その反応に、祐真は眉をひそめた。
「何だ、それは?」
「言わないほうが……。刑事さん、あなたは知らないんです、この町で何があったか」
春香は言葉を飲み込み、唇を噛む。涙が頬を伝う。
祐真はその夜、森の入り口へ足を運んだ。
参道の先、屋台の灯りが途切れた闇に、大木が影のように並んでいる。
風が吹くたび、葉がざわめき、赤黒い影を揺らした。
足元に一枚、赤い葉が落ちていた。
拾い上げると、指先にぬめりが残った。
血のような臭いが鼻を刺す。
「……気のせいだろ」
呟いたその背後から、声がした。
──くれは。
振り返る。誰もいない。
森の闇だけが、口を開けたようにぽっかりと広がっていた。
翌朝。
町は一夜にして緊張に包まれていた。
「またか」「やっぱり二十年ぶりに……」そんな噂が広まり、人々は家の戸を固く閉ざす。
祐真は町役場に呼ばれた。
応接室で待っていたのは、地元の古い寺の住職・古沢透だった。
白髪交じりの僧衣の男は、彼を睨むように言った。
「刑事さん、森を調べるのはおやめなさい。
あそこは、人が入ってよい場所ではない」
祐真は鼻で笑った。
「オカルトは信じないんでね。失踪した子供がいるんだ。手がかりがあるなら教えてもらおう」
住職は黙り込み、やがて低い声で告げた。
「二十年前にも、同じことがあったのです。……祭りの夜に、娘がひとり消えた」
その言葉が、祐真の背を冷たく撫でた。
彼は一度、赤い葉を思い出し、無意識に指先をこすった。まだあのぬめりの感触が残っている気がする。
「刑事さん。森に呼ばれた者は、決して戻りません」
その忠告を聞きながらも、祐真の心は決まっていた。
──自分の目で確かめなければならない。
夜。
祐真は懐中電灯を手に、再び森の入り口に立った。
葉擦れの音が人の囁きに変わる。
──かえれ。
──おいで。
光の輪の中で、幹の表面に浮かぶものがあった。
人の顔。閉じた目、口元。
その口から、赤い葉がひらりとこぼれ落ちた。
祐真の手が汗で濡れる。
だが目は逸らさない。
「くれは……どこにいる」
その瞬間、森の奥から少女の声が返った。
──ここだよ。
祐真の背筋に、氷の刃が突き立つような感覚が走った。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる