紅葉-くれは-

菊池まりな

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第57話 封印の記憶

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開いた扉の先に、風が流れ込んだ。
 紙灯籠の火が揺らめき、影が壁を這う。
 橘春香は思わず身を引いた。
 誰もいないはずなのに、足音がした──木の廊下を、ゆっくりと、こちらへ。

 「……紅葉?」
 春香が囁く。
 だが返事はなく、代わりに、どこからともなく低い鈴の音が響いた。
 祐真がすぐに前へ出て、扉の向こうを懐中電灯で照らす。
 光の円の中、白い影が一瞬揺らめいた。
 しかし、それはすぐに闇に溶けて消えた。

 古沢住職は一歩も動かず、唇を結んだまま目を閉じた。
 「……始まったか」
 その声に、春香の背筋が凍る。
 「何が……始まったんですか?」

 住職は、静かに祈祷台の上に古文書を開いた。
 煤けた紙が擦れる音が、やけに大きく響く。
 そこには、血のように赤黒い墨で書かれた文字が並んでいた。

  『紅葉ノ祭──贄ノ儀式也。
   森ノ神、人ヲ喰ラウ。
   子ノ声ニ応ジ、還リ神ト成ル。
   名ヲ呼ブ者、血ヲ繋グ者、皆、導カレル』

 「……“導かれる”?」
 美奈が呟いた。
 住職は頷いた。
 「還り神は、ただ人を喰うのではない。血の記憶を、喰う。
  かつて失われた者たちの“縁”を喰らい、次の贄を選ぶんだ」

 春香の唇が震えた。
 「じゃあ……紅葉は、私の……血が、呼んだの?」
 古沢の眼差しが重く沈んだ。
 「そうだ。お前の娘、美桜もまた、その血を受けていた。
  二十年前、封印の儀で“還り神”は沈められたが──
  贄を喰らった魂は、森の底で息づいている。
  そして、時が巡るたびに“紅葉の印”を持つ子を呼ぶのだ」

 春香は、両手で顔を覆った。
 涙が指の間から零れ落ちる。
 「わたしが……あの子たちを、呼んだ……?」

 祐真は拳を握りしめ、前に出た。
 「違う。呼んだのは──俺だ」

 古沢が静かに顔を上げた。
 祐真の声が震える。
 「二十年前、美桜ちゃんが消えたとき……俺、森で叫んだんです。
  “返せ”って。
  あのとき、何かが応えた。影の中で、紅い葉が舞って……
  それ以来、夜になると、あの声が耳の奥に残ってた。
  ──“次はお前だ”って」

 美奈が息を呑んだ。
 春香が顔を上げる。
 「じゃあ……紅葉が消えたのは……あなたが、呼ばれたから?」
 祐真は何も言えなかった。
 ただ、その沈黙が答えのように重くのしかかる。

 そのとき、風がふたたび吹き抜けた。
 本堂の灯が、ぱちりと音を立てて消えた。
 暗闇の中で、美奈が小さく悲鳴を上げる。
 「だれか……いる!」

 扉の外に、無数の影が立っていた。
 子どもの背丈の、形の定まらない黒い影。
 そのひとつが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
 紅い瞳が、微かに光る。

 春香は凍りついた。
 その顔は、見間違うはずがない。
 ──紅葉。

 「お母さん、どうして隠したの?」
 声は、確かに紅葉のものだった。
 「知ってたのに……言わなかったでしょ。
  “紅葉の祭”は、お祈りじゃないって……」

 春香の膝が崩れた。
 祐真が咄嗟に彼女を支える。
 古沢は震える手で数珠を握りしめ、低く呪を唱えた。
 「退け……退けよ、“還り神”……!」

 だが、声は止まらない。
 紅葉の影が一歩、また一歩と近づく。
 そのたびに、空気が凍り、灯籠がひとつずつ消えていく。
 そして、闇の中で、美奈だけが気づいた。
 紅葉の足元に、他の影が幾つも絡みついている。
 ──小さな手、小さな顔。
 まるで、過去に“選ばれた子”たちが、ひとつの存在になっているようだった。

 「ねぇ、美奈……」
 紅葉の声が、柔らかく、美しく響く。
 「わたしたち、ずっと一緒にいたの。
  森の下で、風の中で。
  でもね……この世界に戻るには、もう一人、必要なの」

 美奈は、何も言えなかった。
 ただ、紅葉の瞳が涙のように光るのを見た。
 ──その涙が、黒かった。

 古沢が声を張り上げた。
 「祐真、彼女を外へ連れ出せ! ここは“境”が開いている!」
 祐真は春香の手を掴み、美奈を抱き寄せるようにして走り出した。
 だが背後で、紅葉の声が、もう一度響いた。

 「お母さん──また、秋が来るよ」

 扉が、轟音とともに閉まった。
 世界が、闇に沈む。

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