紅葉-くれは-

菊池まりな

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第65話 紅葉のノート

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夜は静まり返っていた。
 森から戻った春香たちは、それぞれに疲弊しきっていた。
 美奈は居間のソファに横たわり、祐真は窓際で何度も煙草に火をつけようとしては、結局ポケットに戻した。

 春香は、紅葉の部屋の扉を開けた。
 部屋には、かすかにシャンプーの香りが残っていた。
 机の上には、紅葉が使っていたスケッチブックと、開きかけのノートが置かれている。

 彼女はそれをそっと手に取った。

 ページの最初には、整った文字で日付が記されていた。
 > 10月2日 秋祭りまであと5日。
 > 今年は美奈と一緒に行けるかな。

 春香は微笑みかけた。紅葉らしい、他愛もない日記。
 だが、次のページをめくった瞬間、その笑みは凍りついた。

 > 10月5日 また夢を見た。
 > 森の中で、小さな女の子が手を振っていた。
 > 名前は……たぶん、「みお」。

 春香の指が震える。
 「美桜……?」思わず声が漏れた。

 さらにページをめくる。
 > 10月6日 声がした。
 > “紅葉、来て”
 > “あなたは、私のかわり”

 字が乱れていた。線が震え、インクが滲んでいる。
 紅葉が怯えながら書いたのは明らかだった。

 そこへ、背後から足音。
 美奈が目を覚まし、静かに部屋に入ってきた。

 「……それ、紅葉の?」
 「ええ。でも──これを見て」

 春香がノートを差し出すと、美奈は青ざめた顔でページをめくった。
 彼女の指が止まる。

 > 10月7日 “呼ばれた”
 > でも行かなくちゃ。
 > だって、あの人が言ったんだ。
 > “森の下に、ほんとうの名前がある”

 「……“ほんとうの名前”?」
 美奈が声を潜めてつぶやく。

 春香はしばらく黙ったあと、机の引き出しを開けた。
 中には、封を切られていない白い封筒が入っていた。宛名は“橘春香様”。
 紅葉の筆跡ではない。

 封を開けると、中から数枚の紙と、古びた写真が出てきた。

 一枚目の紙には、見覚えのある記号のようなもの──森の鳥居の札に描かれていた“朱の模様”が描かれていた。
 その下に、震えるような文字でこう書かれていた。

 > 呼ばれた子は、名を忘れる。
 > 名を呼ぶ者は、記憶を失う。
 > それが、“境界の代償”。

 写真の中には、子どもたちが数人、森の奥の祠の前で並んでいる。
 その中央には、見間違うはずのない小さな少女──橘美桜がいた。
 隣に立つ少年の顔を見た瞬間、春香の息が止まる。

 ──一ノ瀬祐真。

 幼い彼が、笑っていた。

 「どうして……祐真さんがここに……?」
 美奈が声を詰まらせる。

 春香の頭の中で、すべてが繋がりかけていた。
 二十年前の森。
 美桜の失踪。
 紅葉の夢。
 “呼ばれた”という言葉。

 そのとき、部屋の照明が一瞬だけ点滅した。
 窓の外、真っ暗な夜の中に──人影が立っていた。

 白いワンピース。長い髪。
 そして、光に照らされたその顔は、見覚えのある少女。

 紅葉。

 だが、その瞳は深い闇のように沈んでいた。
 紅葉は唇をゆっくりと動かした。

 > 「……お母さん、もう“呼ばないで”」

 声は聞こえなかった。
 それでも、はっきりと唇がそう言ったことを、春香は理解していた。

 次の瞬間、部屋の電気が落ち、闇が一気に押し寄せた。
 そして、階下から祐真の叫び声が響く。

 「春香さんっ! 出てください! “森の封印”が──」

 彼の言葉が最後まで届く前に、家中の時計が一斉に止まった。

 午前2時44分。

 静寂。
 その中で、春香の手の中のノートだけが、かすかに熱を帯びていた。
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