紅葉-くれは-

菊池まりな

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第70話 声の残響

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重い静寂の底から、かすかな風の音が聞こえた。
 橘春香は、ぼんやりと瞼を開ける。
 視界は暗く滲み、湿った木の匂いが鼻をついた。
 そこは、どこかの古い建物の中だった。

 四方の壁には、紙が貼りつけられている。
 写真──紅葉のものばかりだった。
 制服姿、笑顔、祭りの日の浴衣姿。
 だが、どの写真も“目の部分”だけが黒く塗りつぶされていた。

 心臓が早鐘を打つ。
 春香はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。
 古びた祭壇の上に、古文書のような紙が散らばっている。
 その中央には、煤けた木札が一枚置かれていた。

> 「奉納者──橘家」



 春香の指先が震えた。
 橘家──つまり、自分たちの家。
 木札の下には、古びたノートがある。
 めくると、誰かが震える筆でこう書いていた。

> 「森の子らを贄とし、あかき葉に願いを返す」
「一つ目の年、声を返す」
「二つ目の年、影を返す」
「三つ目の年──命を返す」



 意味が、わからない。
 けれどその文面の“紅き葉”という言葉に、胸の奥がざわついた。

「紅葉……」

 その名を呼んだ瞬間、背後で何かが“ぱちり”と鳴った。
 振り返ると、祭壇の蝋燭に、いつの間にか火が灯っていた。
 誰かが、ここにいる。
 春香は喉の奥を震わせ、声を絞り出した。

「……紅葉? そこにいるの?」

 答えはない。
 だが、確かに“声”がした。
 遠くの闇から、少女の囁くような声が響く。

> 「……お母さん、どうして……」



 春香は立ち上がり、蝋燭を手に闇の奥へ歩いた。
 そこには、古びた木の柱に縄で縛られた“お札”が何枚も貼られていた。
 ひとつひとつに、見覚えのある名前──
 「橘美桜」「氷川美奈」「一ノ瀬祐真」……。

 そして、最後にあったのは──

> 「橘紅葉」



 札の下に、血のような朱が滲んでいる。
 春香が指で触れた瞬間、蝋燭の火がぶわりと燃え上がり、あたりの壁を照らした。
 そこには、子どもたちの絵がびっしりと貼られていた。
 すべて“赤い葉の下で眠る子ども”を描いている。

「やめて……やめて紅葉、お願い……!」

 春香の叫びは、静寂に吸い込まれた。
 その時──頭上から、天井板がわずかに軋む音。
 見上げると、そこに何かが立っていた。

 ──紅葉。

 真っ赤な瞳をして、天井の梁の上から母親を見下ろしていた。
 だがその姿は、血に濡れた影のように揺らぎ、表情がない。

「お母さん、森が……呼んでるよ」

 その声に春香は凍りつく。
 祐真が話していた“呼ばれる”という言葉が脳裏をよぎる。
 次の瞬間、紅葉の姿はふっと消えた。
 残されたのは、天井からゆらゆらと降る一枚の“赤い葉”だけ。

 春香は震える手でそれを受け取る。
 それは、森の外では見たことのない、異様なまでに鮮やかな紅。

 葉の裏には、細い字で何かが書かれていた。

> 「また、秋にね。」



 春香の喉が詰まった。
 その言葉は、紅葉が消える直前──祭りの夜に言っていた言葉と同じだった。

 遠くで、風鈴が鳴る。
 どこからともなく、美奈の声がする。

「……春香さん……どこにいるんですか……?」

 その声が導くように、春香は闇の中を走り出した。
 その足元に、いつの間にか散り始めた紅い葉。
 ──森が、再び口を開こうとしていた。
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