紅葉-くれは-

菊池まりな

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第78話 鈴の音の夜

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裂け目の奥は、懐中電灯を照らしても終わりが見えなかった。
 土壁が湿って光を吸い込み、底の見えない闇へと続いている。
 冷たい空気が頬を撫で、祐真は思わず身を引いた。

 「……行くのは危険だ。崩れやすい。下手をすれば、生き埋めになる」
 そう言って、彼は祠の前に立ち、春香と美奈を見やった。

 春香の手の中では、さっき拾った鈴がかすかに震えていた。
 風のせいではない。
 まるで“誰かの手”が内側から触れているように。

 「……紅葉」
 春香の唇から、娘の名が漏れた。
 その瞬間、森の奥から──小さな声が聞こえた。

 『……お母さん……』

 空気が止まった。
 祐真も美奈も、息を呑む。

 「今の、聞こえましたか?」
 美奈が震える声で問う。
 祐真は目を細め、耳を澄ませる。だが、もう何も聞こえなかった。

 「……帰ろう」
 祐真が低く言う。
 「今夜はここまでにしましょう。無理に進むと、取り返しがつかなくなる」

 春香はなおも裂け目を見つめていた。
 娘が、そこにいる気がしてならなかった。
 けれど、鈴が突然──鳴った。

 澄んだ音が、夜の森を切り裂くように響き、
 それと同時に春香の手から鈴がするりと落ちた。

 カラン、と転がる鈴。
 祠の奥へ、闇の中へ吸い込まれるように消えた。

 春香が駆け出そうとした瞬間、祐真が腕を掴んだ。
 「ダメだ、春香さん!」
 「離して!紅葉が──!」
 「違う!あれは紅葉じゃない!」

 祐真の声は、ほとんど叫びだった。
 森の奥で、木々がざわめき出す。
 風ではない。まるで、何かが這い寄ってくるような音。

 春香の顔から血の気が引いた。
 祐真が彼女を抱えるようにして森の外へ引きずり出し、美奈が後を追った。

 森を抜けるまでの道が、異様に長く感じた。
 背後では、鈴の音が断続的に鳴り響き、そのたびに空気が凍る。

 ──紅葉の声。
 あれは、誰だったのか。

 春香の頭の中では、何度もその問いが反響していた。



 夜。
 美奈は自室のベッドで、眠れずにいた。
 窓の外では、虫の声も止み、ただ月だけが鈍く光っている。

 机の上には、紅葉と撮った写真があった。
 夏祭りの日、二人で笑っている。
 写真の中の紅葉は、いつものように明るくて、どこにも“消える予兆”なんてなかった。

 ──なのに、なぜ。

 「紅葉……どこにいるの?」

 呟いたそのとき。
 チリ──ン。

 耳元で、鈴が鳴った。

 美奈ははっとして顔を上げた。
 部屋には誰もいない。
 けれど、写真立てのそばに置いていたカーテンが、風もないのに揺れている。

 音は、もう一度鳴った。
 今度は、窓の外から。

 恐る恐るカーテンを開けると、月明かりの下に、森の方角で赤い光がちらついた。
 それは、まるで人の形をしていた。

 ──鈴の音が、遠くから返ってくる。
 「……紅葉?」

 美奈が呟いた瞬間、その光がふっと消えた。

 そして、ガラス窓に誰かの手形が、内側から押し付けられるように浮かび上がった。
 冷たく、湿った、小さな手。

 美奈は悲鳴を上げることもできず、ただ震えた。
 外から吹き込む風が、彼女の髪を揺らしながら──
 まるで囁くように、ひとこと、言った。

 「見つけて。」
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