紅葉-くれは-

菊池まりな

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第89話 森が覚えている

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少女の姿は、霧の中で輪郭を揺らめかせていた。
 その足元から漂う白い靄が、春香たちの足首を絡め取るように広がっていく。

 「紅葉……? 紅葉なの?」
 春香の声は震え、喉が焼けるほど乾いていた。
 答えはない。ただ、少女はゆっくりと微笑み、森の奥へと歩き出す。

 ──チリン。チリン。

 鈴の音が、呼吸のように等間隔で響く。
 そのたびに、春香の胸の奥で何かが疼いた。
 この音を、彼女は知っている。
 二十年前のあの夜にも、確かに──この音を聞いた。

 「待って!」
 春香は駆け出した。
 祐真と美奈が慌てて追いかける。

 霧が濃くなる。木々の間を抜けるたびに、空気が冷たく変わる。
 まるで時間そのものが巻き戻っているようだった。

 「おかしい……。方角が、違う」
 祐真が低くつぶやく。
 GPSの端末は反応せず、コンパスの針も狂っていた。
 森が、彼らを“閉じ込めている”。

 「ここ……どこ?」
 美奈の声がかすれる。
 そこには見覚えのない空間が広がっていた。

 木々の根が絡み合い、中央には古びた祠があった。
 祠の前には、小さな木箱。
 その上には、錆びついた鈴と──折り紙のような紙片が置かれている。

 祐真が慎重に拾い上げると、紙は湿気でふやけていた。
 “ミオ”と、震えるような文字で書かれている。

 「……美桜だ」
 春香の膝が崩れた。
 手を震わせながら木箱を開ける。

 中には、子どもの髪束と、小さな靴の片方。
 どちらも泥にまみれ、土の匂いがした。

 「二十年前……この場所で……?」
 祐真がつぶやく。
 脳裏に、あの夜の記憶がフラッシュのように蘇る。

 ──走る子どもたちの声。
 ──森の奥から響く鈴の音。
 ──そして、美桜の小さな手が、何かに引かれて消えた瞬間。

 「俺は……あのとき、見たんだ」
 祐真の声は掠れていた。
 「“誰か”が、美桜の手を掴んでいた。子どもじゃなかった……もっと、冷たい何かが」

 春香が顔を上げる。
 「それが、今……紅葉を……?」

 その言葉に応えるように、祠の奥で小枝が折れる音がした。
 祐真がライトを向ける。

 そこに──紅葉の姿があった。

 だが、その背中には、誰かの“手”が絡みついていた。
 白く細い指。無数に伸び、紅葉の肩から首筋へと這い上がる。

 「紅葉っ!!」
 春香の叫びと同時に、霧が一斉にざわめいた。
 木々が軋み、風が逆流する。

 ──返して。
 ──ひとりじゃ、いや。

 少女の声が、森全体に反響した。
 美奈が両耳を塞ぐ。
 祐真が叫んだ。
 「下がれ! 触れるな!!」

 だが春香は、一歩、また一歩と紅葉へ近づいていく。
 その手を伸ばした瞬間、祠の中から黒い影が吹き上がった。

 それは風ではなく──“怨念の形”だった。

 闇が三人を包み込む中、祐真は確かに見た。
 祠の奥の壁に、古い墨で書かれた文字。

 「この森は、母を喰らう」

 チリン──。

 最後に鳴った鈴の音が、血のように赤く響いた。
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