紅葉-くれは-

菊池まりな

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第95話 二つの鈴

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夜が明けきらぬうちに、村の霧がゆっくりと流れ込んでいた。
 橘春香は、冷たい井戸水で震える手を洗いながら、昨夜の“赤い鈴”を思い出していた。
 あの小さな音はまだ耳の奥に残っている。チリ……ン。
 ひとつではなく、ふたつ──。

 美奈は玄関先の縁側に腰を下ろしていた。
 毛布を肩にかけ、蒼白な顔で祐真の言葉を待っている。
 祐真は駐在所から持ち帰った記録ファイルを広げ、ランタンの灯りの下でページをめくった。

「……やっぱり、二十年前の“神隠し”事件の記録、曖昧すぎますね」
 彼は低く呟く。
「橘美桜の行方不明──公式には“事故の可能性が高い”とあるけど、現場検証の記録も写真もない。
 ……まるで、誰かが意図的に消したみたいだ」

 春香の指が、ぎゅっと膝の上で組まれた。
「消されたのよ。美桜の記録も、真実も。村の“掟”に逆らったから……」

「掟?」
 祐真が顔を上げる。
 春香はしばらく黙り込み、それからぽつりと語りはじめた。

「──この村には、昔から“秋祭りの夜には、森へ一人で行ってはならぬ”という言い伝えがあるの。
 でも、守らなかった者がいたのよ。二十年前、あの夜、美桜と……もう一人、女の子が森に入ったの」

「もう一人?」
 美奈が顔を上げた。
 春香の唇が震える。
「古沢住職の娘、玲奈ちゃんよ。二人で森に花を摘みに行って、そのまま──」

 その名を聞いて、祐真の目が一瞬、揺れた。
 ──玲奈。
 幼い頃、確かに一緒に遊んだ記憶がある。だが、彼女の顔がどうしても思い出せない。
 まるで、意識の奥で“塗りつぶされている”ようだった。

「玲奈さんなら……昨日、住職さんが言ってました。村にはもう戻らないって」
 美奈の言葉に、春香はゆっくり首を振る。
「いいえ、美奈ちゃん。玲奈ちゃんはこの村を出ていないのよ。──“出られない”の」

 その瞬間、廊下の奥で“カラ……ン”と鈴が鳴った。
 三人が同時に振り向く。
 風もないのに、古びた神棚の前に吊るされた紙垂がふわりと揺れていた。

 祐真は立ち上がり、慎重に歩み寄る。
 神棚の前に、小さな封筒が落ちている。
 拾い上げると、赤土のような汚れが付いていた。
 封には震える筆跡でこう書かれていた。

 > 「──呼んではならない。森は、覚えている。」

 美奈が口元を押さえた。
 春香の顔色がみるみる青ざめる。
「……その言葉、昔、美桜が消える前に書いたの。紙芝居の裏に。
 “森は覚えている”って……どうして……」

 祐真は震える封筒を握りしめ、息を吸った。
「春香さん。俺が駐在所にいた理由、話してませんでしたね」

 春香と美奈が、驚いたように彼を見た。
 祐真の表情はどこか影を落としていた。

「俺も……二十年前、この村で“呼ばれた”んです。
 美桜ちゃんが消えた日、あの森で、一緒に遊んでた。
 でも、そのあとどうやって帰ったのか、何も覚えてない。
 ──ただ、鈴の音だけが、頭から離れないんです」

 チリ……ン。
 祐真の言葉に呼応するように、再び鈴が鳴った。

 今度は外からだった。
 三人が縁側に駆け寄ると、朝霧の中、森のほうから“白い影”がゆらりと動いた。
 それは、まるで祭りの装束を纏った少女のように見えた。

 春香の唇が震えた。
「……紅葉?」

 影は振り返らず、森の奥へと消えていった。
 代わりに、地面に“二つの鈴”が落ちている。
 片方は紅葉の髪飾り。
 もう一方は──古びて錆びた、美桜のものだった。

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