紅葉-くれは-

菊池まりな

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第98話 闇の中で聞こえた声

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足音は、確かに近づいてきていた。
 けれど、まるで霧の中で位置が曖昧になるように、一定の距離を保ったまま焦点が合わない。

 近いのに、見えない。
 気配だけが、こちらに触れようとしてくる。

 祐真は、美奈を背後に押しやりながら静かに言った。

「声を出すな。目も閉じていろ」

 美奈は必死に息をひそめ、祐真の背中に額を押し当てた。
 足音は二人の真横を通り過ぎるように聞こえた。

 ──ザッ…ザッ…

 土を踏むその音は、まるで人間の歩幅とは少し違う。
 不揃いで、引きずるようで、確信が持てない不気味さがあった。

 そして──その真上から、声が落ちてきた。

 ──「……み……つけた……」

 美奈は震えた。
 息が漏れそうになるのを、祐真の手がそっと塞ぐ。

(祐真さん……震えてる……)

 彼がこんなに怯えているのを、美奈は初めて見た。
 彼の指先は冷たく、かすかに汗ばんでいる。

 足音が、ぴたりと止んだ。

 風も止まり、森全体が耳を澄ませるように沈黙する。

 その静寂の中、再び声がした。
 今度は、地面に溶けるような低さで。

 ──「……返して……」

 美奈の背筋に冷たいものが走った。

(返して……? 何を……?)

 返事をしてはいけないと分かっているのに、胸が締め付けられるような悲しい声だった。

 祐真が、美奈の手を強く握った。

 そして、ほんの一瞬の隙をついて、祐真は美奈の手を引き、闇の中を走り出した。

「──走れ!」

 美奈は声にならない悲鳴をあげながら、必死で足を動かす。
 祐真が握る手は強く、引きずられるほどだった。

 背後で──足音が追ってくる。

 さっきより速い。
 確実に、近づいてくる。

 木々の影が揺れ、枝がはじける音が響いた。

「こっちだ!」

 祐真は古い林道脇の、小さな崩れかけた小屋へと美奈を押し込んだ。
 中は真っ暗だが、外よりはまだ安全だった。

 祐真は素早く入口に板をかけ、光を漏らさないよう懐中電灯の上に手ぬぐいをかぶせる。

 外では──足音が小屋の周りを回っている。

 ──ザッ……ザッ……ザ……

 そのたびに、小屋全体が軋んだ。

 やがて、足音は止んだ。

 止んだのに──そこにいる気配だけが、重く残っている。

 美奈は祐真の袖を握り、震える声で囁いた。

「……祐真さん……今の……人じゃ、ないですよね……?」

 祐真は答えなかった。
 答えられなかった。

 本能が告げていた。
 あれは“人間の足音ではない”。

 そして。

 暗闇の向こうで、再び声がした。

 ──「……ミ……ナ……」

 美奈の身体が凍りつく。

「なんで……私の名前……」

 声は続けた。

 ──「……くれはを……かえせ……」

 美奈は口を押さえ、祐真は美奈を抱きしめるようにして守る。
 その瞬間、外の気配がふっと消えた。

 まるで最初から、誰もいなかったかのように。

 だが、美奈の耳には、まだかすかに余韻が残っていた。

 ──紅葉を返せ。

 何者かが、確かにそう言った。
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