紅葉-くれは-

菊池まりな

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第116話 森底に還らぬ声

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 音は、確実にこちらへ近づいてきていた。
 ざり、と湿った土を踏みしめる音。
 不規則で、どこか“ためらう”ような間を挟みながら、それでも止まらない。

 春香は無意識のうちに一歩、皆の前へ出ていた。

「……祐真、ランタンを奥に」

 小さく指示すると、祐真は頷き、光を音のする方へ向ける。
 揺れる光の輪が、黒々とした木立の隙間をなぞった。

 だが──何もいない。

 見えるのは、絡み合う枝と、地面に張りつくように垂れた蔦だけ。
 人影どころか、動くものすら見当たらない。

「……見えない」

 美奈の声が、かすかに震えた。

 それでも音は、さらに一歩分、距離を詰めてくる。

 ざり。
 ざり。

「……確かに、いる」

 祐真の喉が、ごくりと鳴った。

「でも、姿が……」

 春香は、両腕を抱きしめるようにして立ち尽くしていた。
 視線は一点──ランタンの光の向こう、闇のさらに奥へ。

「……見えないんじゃない……」

 かすれた声で、春香が言った。

「“見えないふりをしている”だけ……」

 その瞬間だった。

 ふいに、森の奥で“何かが、ずるりと動く気配”がした。
 枝がしなる音でも、獣の足音でもない。
 重さだけが、地面を這うように伝わってくる。

 春香は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

(……これは……人でも、獣でもない……)

 その“何か”は、ランタンの光の縁ぎりぎりの場所で、ぴたりと止まった。

 さらに一歩でも踏み出せば、必ず姿が見える距離。
 だが──踏み出してこない。

 まるで、こちらを“観察している”かのように。

「紅葉……紅葉なの……?」

 春香が、思わずそう呼びかけた。

 返事はない。

 代わりに──
 森の奥から、かすかに“誰かの息遣い”のような音が聞こえた。

 はぁ……
 はぁ……と、引きずるような呼吸。

 美奈が口元を抑える。

「……苦しそう……」

 次の瞬間、ランタンの光が、わずかに“何かの輪郭”を捉えた。

 人の肩のような線。
 だが、その下が異様に長く、歪に地面へと溶けている。

「……あれは……」

 祐真が、息を殺す。

 その“影”は、確かに人の形に見えた。
 だが足元が、はっきりと“足”になっていない。
 濡れた布のように、地面に広がっている。

 春香の脳裏に、嫌な予感が走った。

(……これは、選ばれる前の“残り滓”だ……)

 その瞬間──

 影が、ぴくりと揺れた。

 次いで、のろのろと“顔”の位置にあたるあたりが持ち上がる。
 ランタンの光が、ついにそれを照らし出した。

 ──人間の顔だった。

 だが、目がない。
 あるべき場所は、ただ黒く凹み、口だけが異様に横へ裂けている。

「……っ!」

 美奈が悲鳴を噛み殺し、祐真が思わず後ずさる。

 その“顔”が、ゆっくりとこちらを向いた。

 そして──

「……か……え……せ……」

 かすれた声が、確かに“言葉”として、森に響いた。

 春香が、はっと息を詰める。

「……美桜……?」

 だが違う。
 その声には、美桜の面影はどこにもなかった。
 年齢も、性別も、不鮮明な“抜け殻の声”。

「……それは、何を返せって言ってるんですか……?」

 春香が、震えを押し殺して問いかける。

 影は、答えない。
 ただ、じり、とさらに半歩、こちらへ滲み出た。

 その足元──
 地面に、赤黒い“濡れた跡”が広がっていく。

 血ではない。
 だが、血よりも生々しい、“何かを失った痕”。

 祐真が、低く唸るように言った。

「……こいつは……“奪われたまま戻れなくなった存在”だ」

「奪われた……?」

 その言葉に反応するように、影の口が再び動いた。

「……か……え……せ……」

 その瞬間、春香の胸の奥で、何かがはっきり繋がった。

(……紅葉は……
 “これ”に、連れて行かれたんじゃない……)

 影は、紅葉そのものではない。
 けれど──紅葉へ続く“道”を、今も覚えている存在。

「……紅葉は、どこにいる」

 春香が、強く言い切った。

「教えて。
 あの子は、まだ生きているの」

 一瞬、森の空気が張り詰めた。

 すると影は、ぎこちなく首を──
 “森のさらに奥”へと、傾けた。

 その先は、地図にも記されていない、森の最深部。
 そして、20年前──美桜が最後に消えた方向と、同じだった。

 春香の瞳に、恐怖と希望が同時に宿る。

「……奥に……いるのね……」

 影は、それきり動かなくなった。
 まるで、伝えるべきことを伝え終えたかのように。

 そして──
 次の瞬間、湿った土に溶けるように、その姿は静かに崩れ落ちた。

 後に残ったのは、
 土に埋もれたままの、あの“銀色の金具”と──
 さらにその奥へと続く、踏み固められた新しい足跡だけだった。

 春香は、ゆっくりと奥を見つめる。

「……行くしか、ありませんね」

 20年越しの森と、紅葉の行方。
 そして、美桜の失踪の真実へ──

 すべての“道”は、今、森の最深部へと収束し始めていた。

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