紅葉-くれは-

菊池まりな

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第125話 戸口の向こう

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 玄関の木扉の向こう──
 紅葉によく似ているのに、紅葉ではない“誰かの声”が、もう一度つぶやいた。

 「……あけて……?」

 春香の胸が締めつけられた。
 その声は、小さく、震えていて、助けを求めるようで──
 けれど、紅葉の声にある“温度”がない。
 息の湿り気も、感情の揺れもない。

 まるで、録音された声を、誰かが戸の前で再生しているような無機質さを帯びていた。

「開けちゃダメです、春香さん」

 美奈が強く腕を引いた。
 だが春香は、扉に近づく足を止められずにいた。

「……紅葉かもしれない……
 あの子、怖くて……震えてるのかも……」

「違う。これは紅葉じゃない」

 静かだが強い声で、美奈が言う。

「紅葉なら……“お母さん”って呼ぶはずです。
 こんな呼び方、しない」

 春香はぎゅっと唇を噛んだ。
 確かに、娘が助けを求めるなら必ずそう言う。
 “お母さん”と。

 そのとき──
 扉の向こうから、三度目のノックが来た。

 しかし、今度は違った。
 ゆっくり二回叩いたあと、三秒ほど間を置き、もう一度ひとつだけ叩く。

 美奈はその音のパターンに、心臓が凍りついた。

 中学の帰り道。
 鉄棒の影。
 瑞月が、美奈を呼んだあの日。

 ──コン、コン……(間)……コン

 「……み、瑞月……」

 思わず名前が漏れた。

 すると外の気配が、ぴたりと止まった。

 沈黙。
 どこにも風は吹かず、虫の声すら遠ざかったような静寂。

 古沢が口を押さえ、震える声で言った。

「……その叩き方……記録に、あります……
 二十年前、“戻ってきた子”が、家に現れた夜と……同じです」

 春香の背筋を冷たいものが這った。

「……美桜と……同じ……?」

 どうして。
 どうして今、こんな形で……。

 春香の視界が揺れた。
 床の板が遠くなる。
 胸が苦しい。
 手が冷える。

 美奈が慌てて支えた。

「春香さん、しっかりしてください……!」

 その瞬間──

 ガタッ
 扉の向こうで、何かが“這うような音”がした。

 まるで、戸口に顔を寄せ、“隙間から覗こうとする”ように。

 美奈の血の気が引いた。

「……見てる……誰かが、隙間からこっちを……」

 春香は、震える声でつぶやいた。

「……紅葉……?
 本当に紅葉なら……名前を……」

 春香は扉へ向き直り、小さく呼びかける。

「……紅葉……?
 そこにいるの……?」

 静寂。

 春香はもう一度、震える声で。

「もし紅葉なら、返事をして……
 あなたの声を聞かせて……」

 数秒──
 長い長い沈黙があった。

 そして。

 「…………おかあ……」

 紅葉の声。
 完璧な紅葉の声。
 だが──

 語尾が違う。
 言葉の“間”が違う。
 息継ぎの仕方も違う。

 “紅葉の声を知っている何か”が、真似している。

 春香は、その瞬間に理解した。

 ──これは、紅葉ではない。

 胸に、冷たく重いものが沈んだ。

「……紅葉を、真似しないで……」

 春香は、扉から一歩退いた。

 美奈も、古沢も、息を呑んで見守る中──

 扉の向こうで、声が変わった。

 「……あけて……
  ねぇ……あけてよ……
  こんなに……さむいのに……」

 その言葉は、急に幼い声へと変わっていった。

 美桜の声に、似ていた。

 春香の膝が崩れかけた。

「……美桜……?
 美桜なの……?」

 美奈が強く叫んだ。

「騙されないで!!」

「でも……この声は……」

「違う!
 美桜の声、覚えてるんですよね?
 あの子、そんなふうに“泣きつく声”出しませんでした!」

 美奈の言葉は鋭く、そして正しい。

 春香の肩が震えた。

 その瞬間──

 扉の外で、何かが“立ち上がる”音がした。
 ゆっくり、ぎしぎしと、骨が軋むような音を伴って。

 古沢が変色した顔でつぶやく。

「……これは……人ではありません……
 “形だけ借りているもの”です……」

 美奈は息を飲んだ。

「じゃあ……紅葉は……紅葉はどこに……?」

 春香の目から、ひと粒の涙がこぼれ落ちた。

 扉の向こうで、
 “それ”は──

 コツ、コツ、コツ
 先ほどとは違う速さで、指を扉に当て始めた。

 まるで、
 怒りか、
 焦りか、
 落ち着かなさをあらわすように。

「……入れて……
  ……いれて……
   ……いれ……て……」

 声が、どんどん“潰れていく”。

 紅葉ではなく──
 美桜でもなく──
 瑞月でもなく。

 “名前のない何か”の声に変わっていった。

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