紅葉-くれは-

菊池まりな

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第126話 境界に立つ影

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 扉の向こうで、“それ”は指を止めた。

 沈黙。
 だが、気配だけは消えない。
 まるで──こちらの反応を待っている。

 春香は、壁に手をついて深く息を吸った。
 胸が痛むほど、肺が冷たい空気を取り込む。

「……紅葉は……
 紅葉は、生きてる……」

 それは、願いではなかった。
 二十年前、美桜を失ったあと、何度も自分に言い聞かせた言葉だ。
 そのたびに、希望は裏切られてきた。

 それでも──
 今度だけは、違うと信じたかった。

 美奈は春香の横に立ち、扉を睨みつけた。

「……あんた、誰なの」

 低く、はっきりとした声だった。

「紅葉の名前を使って、
 美桜の声を使って、
 人の心に入り込む……
 そんな真似、もうやめて」

 返事はない。
 だが、扉の下の隙間から、ひどく冷たい空気が流れ込んできた。

 床に置いたランタンの炎が、ゆらりと歪む。

 古沢が声を潜めて言った。

「……境界です……
 この家は、ちょうど“向こう”と“こちら”の縁に……
 だから、呼びかけに応じると……」

「引きずられる?」

 美奈が問い返す。

 古沢は、ゆっくりと頷いた。

「……二十年前も、そうでした……
 “声に応じた者”だけが……」

 春香は、はっと顔を上げた。

「……美桜……
 あの子……呼ばれて……」

 記憶が蘇る。
 夜中、玄関先で微かに聞こえた“子どもの声”。
 泣いているようで、泣いていない、奇妙な声。

 春香は、その声に返事をしてしまった。

 ──美桜?

 それが、最後だった。

 美奈は、春香の手を強く握った。

「春香さん。
 今度は、応えちゃだめです」

 春香は、震えながら頷いた。

 そのとき──
 扉の向こうで、足音が一歩、後ろへ下がった。

 逃げる……?
 いや、違う。

 次の瞬間、
 別の場所から、音がした。

 ──トン。

 天井。
 屋根の上だ。

「……上にいる……?」

 美奈の声が掠れる。

 続けて、
 トン、トン……ギ……

 何かが、屋根を“引きずる”ような音。

 古沢が歯を食いしばる。

「……家の中に入れないなら……
 “出口”を探している……」

「出口?」

「……この家に……
 “連れて行ける者”が、いないか……」

 春香の胸に、嫌な予感が走った。

「……祐真……」

 美奈も、同時にその名を思い浮かべていた。

 祐真は、森での捜索のあと、別行動で山側を回っている。
 まだ、戻っていない。

 そのとき──
 家の裏手から、パキッと枝の折れる音がした。

 人の足音。
 確かな、祐真の足音。

「……戻ってきた……」

 美奈は、慌てて窓へ走った。

「祐真!!
 止まって!!
 そこから動かないで!!」

 だが、外は暗く、雨上がりの霧が立ち込めている。
 祐真の姿は見えない。

 代わりに──
 祐真の声が、背後から聞こえた。

「……美奈?
 どうしたんだ、そんな大声で──」

 振り返った瞬間、
 美奈の背筋が凍った。

 そこに立っていたのは──
 祐真“そっくり”の姿。

 だが、目が合わない。
 焦点が、どこにも合っていない。

 春香が、掠れた声で呟く。

「……違う……
 あれは……祐真じゃない……」

 “それ”は、祐真の姿のまま、ゆっくりと首を傾げた。

「……どうして……?」

 声は、祐真のものだった。
 だが、感情がない。

 美奈は、一歩後ずさる。

「……本物は……どこ……?」

 “祐真”は、静かに微笑んだ。

 そして、
 玄関の扉が、内側から──きし、と音を立てた。

 鍵が、ひとりでに回り始める。

 ──ガチャ。

 春香が叫んだ。

「やめて!!」

 だが、もう遅かった。

 扉は、ゆっくりと──
 開き始めていた。

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