紅葉-くれは-

菊池まりな

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第131話 返されない名

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 森を出るまで、誰も言葉を発さなかった。

 踏みしめる落ち葉の音だけが、やけに大きく響く。
 鈴の音は、もう聞こえない。
 だがそれは安心ではなく、見送られている感覚に近かった。

 ようやく山道を抜け、神社の裏手に出たところで、春香が立ち止まった。

「……紅葉は……
 まだ……戻れるのよね……?」

 問いというより、祈りだった。

 祐真は即答できなかった。
 警察官としての理屈も、二十年前に森に置き去りにしたはずの記憶も、
 今はどちらも頼りにならない。

 答えたのは、美奈だった。

「……戻れる。
 紅葉は……
 “渡しきってない”から」

 二人が、美奈を見る。

「……名前……
 完全には、取られてない……」

 美奈は、胸元を握った。

「……あの日……
 紅葉が最後に言った言葉……
 思い出した……」

 春香の心臓が、強く跳ねた。

「……何て……?」

 美奈は、息を吸い、吐いた。

「『……もし、私がいなくなったら……
 “くれは”って呼ばないで』」

 祐真が、眉をひそめる。

「……それ、どういう……」

「……紅葉……
 自分で、気づいてたんだと思う……」

 美奈の声は、震えていたが、はっきりしていた。

「……名前を呼ばれると……
 連れていかれるって……」

 春香の喉が、詰まる。

「……じゃあ……
 私が……
 あの夜……」

「……違う!!」

 美奈は、即座に首を振った。

「……春香さんのせいじゃない……
 紅葉は……
 守ろうとしてた……
 自分で……」

 沈黙。

 そのとき、祐真が静かに口を開いた。

「……二十年前……
 美桜が消えたときも……
 同じだった」

 二人が、祐真を見る。

「……名前を呼んだ……
 俺も……
 春香さんも……
 村の大人も……」

 祐真は、拳を握りしめた。

「……だから……
 森は……
 “名前を与えられる子”を……
 待ってる……」

 美奈が、はっとする。

「……祭り……」

「……ああ」

 祐真は、神社の方を見た。

「……秋祭り……
 名前が、何度も呼ばれる夜……」

 提灯の残骸が、まだ境内に残っている。
 祭りは終わったが、森は終わっていない。

 春香が、ゆっくりと顔を上げた。

「……じゃあ……
 紅葉を取り戻すには……」

 祐真は、覚悟を決めたように言った。

「……“名前を返させる”しかない」

 美奈が、息を呑む。

「……どうやって……?」

 祐真は、懐から古い手帳を取り出した。

 二十年前、事件のあとに、
 自分が書き残していたもの。

「……村の古い噂……
 “呼ばれた子は……
 名を失い……
 代わりに……
 誰かの名を残す”……」

 春香の背筋が、凍りついた。

「……それって……」

「……ああ」

 祐真は、低く続ける。

「……誰かが……
 “名を差し出す”必要がある……」

 その瞬間──
 神社の奥から、微かな鈴の音がした。

 ──ちりん。

 三人の視線が、一斉に向く。

 鳥居の影に、
 小さな人影が、立っていた。

 高校生の制服。
 長い髪。

 だが、顔は闇に溶けて見えない。

 美奈が、声を震わせる。

「……紅葉……?」

 影は、ゆっくりと首を振った。

 そして、
 別の名前を口にした。

「……み……お……」

 春香の胸が、引き裂かれる。

 ──美桜。

 二十年前に失った、最初の娘の名。

 影は、一歩、前に出る。

「……返して……
 呼ばれた……
 から……」

 鈴の音が、再び、重なった。

 逃げ場はない。

 祐真は、低く言った。

「……選ばせる気だ……」

 美奈が、震える声で問う。

「……誰を……?」

 祐真は、闇を見据えた。

「……どの名前を……
 この森に残すか……」

 春香の視界が、滲んだ。

 だが、次の瞬間──
 彼女は、一歩、前に出た。

 その背中は、迷っていなかった。

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