紅葉-くれは-

菊池まりな

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第138話 床下からの合図

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 床下を叩くような音は、一度きりでは終わらなかった。

 どん……どん……と、規則を持たないリズムで響き、そのたびに床板がわずかに浮き上がる。

「……床の下に、何があるんですか」
 祐真が低く問うと、老人は唇を噛んだ。

「開けてはいかん……。
 そこには、触れてはならないものがある」

「それじゃ答えになってません。説明してください」

 祐真は警察官としての声に変わっていた。

 だが老人は、震えた声で振り切るように言う。

「説明したところで……もう遅い。
 お前たちは、聞かれてしまった」

 春香の背筋が冷たくなる。

「……誰に?」

 老人の喉がひくりと動く。

「“森に還れなかった者たち”にだ」

 再び、床下から硬い何かが擦れる音がする。

 ず、ずり……と、そこに指を這わせるような音。

 美奈の顔色が失われた。

「ねぇ……あれ、人の音じゃないよね……?」

「わからない。でも、確かめなきゃいけない」

 祐真はそう言うと、机に置かれていた錆びた工具を手に取った。

 バールのような形をしているが、用途はよくわからない。

「待ってくれ……開ければ、引きずり込まれるぞ。
 ここは、“境界”の上なんだ」

 老人の声は確かに警告だった。

 だが、春香は後ろへ退かずに前へ一歩出る。

「美桜も……紅葉も……この先に繋がっているなら。

 見ないで終われるわけがない」

 老人は目を閉じ、痛むような声でつぶやく。

「……母親というのは、どうしてこうも……止められん……」

 ミシッ

 床板の一枚が、内側から膨れ上がった。

 まるで、誰かが下から押しているように。

 祐真は息を呑み、バールを差し込む。

「下がってろ」

 板がゆっくりと剥がれていく。

 古い木が裂ける匂いとともに、暗い穴が姿を現した。

 ひんやりとした冷気が吹き上がる。

 風を感じるはずのない床下から、まるで森の奥と同じ湿った気配が流れ込んでくる。

「……穴、じゃない……」

 美奈が小さくつぶやいた。

 そこは“空洞”だった。

 人がしゃがめば入れそうな広さの空洞が、建物の下に広がっている。

 祐真がランタンを差し入れる。

 光が届いた先に──並んでいた。

 小さな靴。

 古びた子どものものがいくつも。

 泥のついたままの長靴や、ちいさな布靴。

 その中に、春香は見覚えのあるものを見つけた。

「……これ……美桜の……」

 震える指先が、汚れた赤い靴に触れそうになる。

 だが触れる前に、老人が怒鳴った。

「触れるなッ!!」

 春香がはっと手を止める。

「それを動かせば……道が開く。
 “連れていかれる道”が」

 美奈が息を詰めた。

「じゃあ……ここの靴はみんな……」

「呼ばれた子どもたちのものだ」

 その瞬間──

 床下の闇から、小さな指先がひょいと現れた。

 白い、泥にまみれた幼い手が、春香の袖をそっと掴む。

 春香の心臓が止まりそうになる。

「……み……お……?」

 呼びかけると、その手がゆっくり震えた。

 返事ではなく、引こうとする動き。

 引っ張ろうとしている。

 下へ。

 祐真が叫ぶ。

「春香さん、離れて!!」

 しかし、春香は離せなかった。
 
 
 その手はあまりにも、小さかった。

 あの日、三歳だった美桜の手と同じだった。

 老人の声が震える。

「離せ……!
 それは“思い出した形”であって……
 本物ではない……!
 下にいるのは、美桜ではない!!」

 春香の目に涙が滲む。

「……でも、呼んでる……!」

「違う!“呼んでいるように見せている”だけだ!!」

 春香の腕を掴んだまま、床下の手が不自然に細長く伸びる。

 皮膚がきしむような音。

 祐真がその手をバールで払い落とす。

 パチンッ!

 指が音を立てて闇へ戻る。

 床下で、子どもの声とも風の声ともつかない声が、ひゅう、と漏れた。

 美奈は目を見開いた。

「今の……泣き声……?」

「違う。泣いてる声じゃない。
 笑ってる」

 祐真の声が震えた。

 老人がぽつりと呟いた。

「……森は“代わり”を求めている。
 呼ばれた者を返さぬ代わりに。
 ここにいる誰かが残らねば、道は閉じん。
 そのために、選ばれてしまったのだ」

「誰が……?」

 老人は、三人を順に見回し──
 春香で視線が止まった。
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