紅葉-くれは-

菊池まりな

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第137話 差し出された代償

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 老人は名を名乗らなかった。

 名乗る必要がない、とでも言うように、彼は

集会所の中央に立ち、ゆっくりと三人を見回した。

「……もう、隠す意味もないか」

 祐真は無意識に、春香と美奈の前に立った。

「あなたは……何を知っている」
 老人は乾いた笑いを漏らす。

「“知っている”んじゃない。
 “関わってきた”だけだ」

 老人は古い長机に手をつき、遠くを見るような目をした。

「この村はな……
 昔から、森に守られてきた」

 美奈が息を呑む。

「……守られて……?」

「作物は枯れず、疫病も広がらず、
 大きな災いは、外を通り過ぎていった」

 老人の声は淡々としていた。

「その代わりに……
 “時々”、森が求めるものがあった」
 春香の指が、強く握り締められる。

「……子ども……?」

 老人は、はっきりとうなずいた。

「“呼ばれる”子が出る。
 理由は分からん。
 だが……決まって、秋祭りの夜だった」

 祐真の喉が鳴る。

「……拒めば、どうなる」
 老人は、視線を祐真に向けた。

「……拒んだ年が、一度だけあった」
 空気が、重く沈む。

「村の外から来た若い夫婦がいてな……
 子どもが呼ばれた」

 老人は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「……父親が、森に入った。
 夜が明けても、戻らなかった」

 美奈の肩が、びくりと跳ねる。

「……母親は?」

「……その年の冬、村を出た。
 その後は……誰も知らん」

 春香の胸に、怒りが込み上げる。

「……そんな……
 それを……
 “仕方ない”で済ませてきたの……?」

 老人は、目を伏せた。

「……“済ませた”わけじゃない……
 “黙る”しかなかった……」

 祐真は、はっきりと問う。

「……美桜は……
 20年前の……
 橘美桜は……
 “差し出された”んですか」

 老人の沈黙が、答えだった。

 春香の視界が暗転する。

「……違う……
 あの子は……
 迷子になっただけ……
 私が……
 目を離しただけ……!」

 老人は、かすかに首を振った。

「……違わん……
 “呼ばれた”んだ……」

 春香の喉から、嗚咽が漏れる。
 そのとき、美奈が震える声で言った。

「……じゃあ……
 紅葉も……?」

 老人は、ゆっくりと目を上げた。

「……あの子は……
 “境目”に立っていた」

「……境目?」

「……連れていく側か……
 留まる側か……」

 祐真が鋭く問う。

「……どういう意味だ」

 老人は、初めて苦しそうな顔をした。

「……あの子は……
 “見えていた”……」

 集会所の空気が、ひやりと冷える。

「……森の奥の……
 “戻れなかった者たち”が……」

 美奈の脳裏に、紅葉の最後の言葉がよみがえる。

──「ねえ……森の中、誰かいるよ」
 あれは、幻覚ではなかった。

 春香は、震える声で言った。

「……じゃあ……
 紅葉は……
 助けを……
 求めていた……?」

 老人は、重くうなずいた。

「……だからこそ……
 “連れていかれた”……」
 その瞬間──

 どん……

 集会所の床下から、鈍い音が響いた。

 三人は凍りつく。

 どん……どん……

 まるで、下から叩いているような音。

 老人の顔色が変わった。

「……来る……
 “気づかれた”……」

 祐真が叫ぶ。

「何がだ!」

 老人は、絞り出すように言った。

「……“代償を、取り戻しに”……」

 床板が、きしりと鳴った。

 森は、まだ終わっていなかった。
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