紅葉-くれは-

菊池まりな

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第141話 境界への降下

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闇の階段は、足を踏みしめるたびに柔らかく沈み込んだ。

湿った土の感触。落ち葉の匂い。

まるで森の呼吸の中へ、三人がゆっくり飲み込まれていくようだった。

先頭を歩く祐真は、懐中電灯を握る手に力を込める。

光が闇を裂くたび、壁には子どもの手形のような跡が浮かんでは消えた。

「……これ、まさか全部……?」
 美奈が震える声で問いかける。

春香はうつむいたまま答えた。 

「きっと……ここに来た“子”たちの跡なんだわ……
 帰りたくて、助けを呼びたくて……」

そのとき、遠くで風が吹いた。

地下なのに、木々の揺れる音が聞こえる。

──ざわり。ざわり。

壁に刻まれた手形が一斉に揺れ、指先が道の奥を指し示した。

まるで「まだ進め」と命じるように。

祐真は振り返らず、静かに言う。

 「この先にいる。……紅葉も、美桜ちゃんも」

階段を降りきった先に、大きな空洞が広がっていた。

その中心に、ぽつりと灯りがある。

蝋燭だった。

一本だけ、古い祠の前に立つように置かれている。

祠には板がかけられ、墨でこう記されていた。

《均衡の回廊》

美奈が眉をひそめる。

 「回廊……帰り道って意味じゃないの?」

「違う。」

祐真の声が低く落ちる。

「“選ぶ場所”って意味だ。
 誰を返して、誰を残すか……そうやって均衡を作ってきたんだろう」

春香は祠の前に進む。

足元が吸い込まれるように沈み、景色が揺れる。

──次の瞬間。

祠の奥に、一本の廊下が現れた。

左右に扉が並び、それぞれに名前が刻まれてい
る。

ひとつは古びた扉。

《橘 美桜》

もうひとつは比較的新しい扉。

《橘 紅葉》

そして三つ目の扉が、今まさに墨で書かれ終わるところだった。

《橘 春香》

墨が生き物のように蠢き、名前を形作る。

春香の体が震える。 

「……私を、ここに閉じ込めるつもりなの……?」

闇の奥から、あの声がした。

──ひとりでいい。

 扉を閉じれば、ふたり返す。

 扉を開けば、均衡は崩れる。

 崩れれば、森は飢える。

祐真は迷いなく春香の肩を掴んだ。 

「閉じない。どの扉も、閉じさせない。
 森がどう暴れようと、全員で帰る」

「でも……!」

春香の声は掠れていた。

「均衡を壊したら、何が起こるかわからない。
 この村ごと……全部飲み込まれるかもしれない……!」

祐真はそれでも、迷いのない目で言った。

「人を差し出して守る村なら、沈んで当然だ。
 そんな守り方、守ったうちに入らない」

美奈が前に出る。 「春香さん、選ばなくていい。

 犠牲で守る均衡なら、壊していい均衡よ」
その瞬間。

コツ……コツ……

背後から、あの“影の足音”が迫る。

階段の上から、ゆっくりと、ひとつの影が降りてきた。

右足、左足、重さの違う歩み。

あの日、紅葉の部屋で聞いた足音。

そして、二十年前、春香が聞いた足音。

美奈が息を呑む。 
「……あれは……」

影が祠の前まで来ると、輪郭が歪み、人の姿に変わっていく。

長い髪。

細い肩。

そして──

春香が、胸に手を当てた。

「……美桜……?」

影は答えない。

ただ、春香の前に立ち、扉へと手を伸ばした。

その指先は、《紅葉》の扉をそっと撫でる。

まるで「先に行け」と告げるように。

祐真が前に出る。

 「ふたりとも救う。そのために来たんだ」

祠が、低く唸った。

──均衡を壊すか。

 ならば、怒りを喰らえ。

空洞全体が揺れはじめる。

壁がひび割れ、木の根が天井から垂れ下がる。

森の心臓が脈打つように、床が脈動した。

春香は二つの名前の扉に手を置く。

「紅葉、美桜……開けるわ。
 今度は、私が迎えに行く」

三人が同時に力を込めたとき──

扉が、音もなく開いた。
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