紅葉-くれは-

菊池まりな

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第148話 名を失う森

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紙から最後の墨が消えた瞬間、
部屋全体が──沈黙した。

さきほどまで脈打っていた床の震えも、
壁を這っていた影も、
嘘のように止まっている。

「……止まった?」

美奈が恐る恐る息を吐く。

だが、安堵は一瞬だった。

みし……みし……

家全体が、ゆっくりと軋み始める。

まるで古い梁が限界を迎えたような、深く鈍い音。

祐真が周囲を見回し、歯を食いしばった。

「違う……終わってない。  これは──森が、怒ってる」

少女が、床に座り込んだまま呟く。

「……うん。  名前がなくなったから。  ここ、もう“つなぎ止められない”」

春香は少女の前に膝をつき、視線を合わせた。

「あなたは……誰なの?  美桜でも、紅葉でもない。  でも……ここに、ずっといた」
少女は小さく首を振る。

「わたしは……“呼ばれなかった子”。  森にさらわれたけど、  だれの名前にもならなかった」

美奈の喉が鳴る。

「……そんな……」

少女は続ける。

「名前がないと、帰れない。  でも、名前がないと……  差し出すことも、できない」

その言葉に、春香ははっとする。

「だから……均衡の“余り”として、  ずっと、ここに?」

少女は、かすかに笑った。

「うん。  だから、あなたの声……あったかかった。  ちゃんと“誰かを呼ぶ声”だったから」

その瞬間──

ドン……ッ!!

壁の向こうから、凄まじい衝撃が走る。

部屋の一角が大きく歪み、木目が裂けた。

外に広がるのは、闇。

森だ。

家の外側から、無理やり“中”に侵入しようとしている。

祐真が叫ぶ。

「来るぞ! 森そのものが!」

影ではない。

形でもない。

“場所”が、意思を持って押し寄せてくる。

床から黒い蔦のようなものが這い出し、
壁から枝が突き破る。

美奈が震える声で言う。

「均衡が壊れたから……  森が、取り戻そうとしてる……!」

少女が春香の袖を掴んだ。

「もうすぐ、この家は消える。  名前でつないでた場所だから」

「じゃあ、あなたは……!」

春香が声を上げかけた瞬間、

少女は首を振った。

「だいじょうぶ。  わたしは……もう“いらない”」

春香は、強く少女を抱きしめた。

「違う。  あなたも――帰るの」
少女の目が、初めて大きく揺れた。

「……わたし、帰っていいの?」

「いい。  名前がなくても。  誰かの“代わり”じゃなくても」

そのとき──

奥の闇から、微かな声が重なった。

──……まま……

春香の心臓が跳ねる。

「……今の……!」

──……まま……ここ……

美桜だ。

確かに、三歳の頃の声。

さらに、少し低く、掠れた声。

──……おかあ、さん……

紅葉。

二つの声が、同じ方向から聞こえている。

美奈が叫ぶ。

「分かれ道が……開き始めてる!  均衡が壊れたせいで、  “本来いるべき場所”が露出してる!」

祐真が春香を見る。

「今だ。  森が完全に閉じる前に──迎えに行け」

春香は立ち上がり、少女の手を取った。

「一緒に行く。  あなたも」

少女は、初めてはっきりと笑った。

「……うん」

家が、崩れ始める。

名前のない場所が、役目を終えて消えていく。

だが──
その奥に、確かに“帰り道”が開いていた。

母の声を待つ、
二つの存在へと続く道が。
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